編集長の「俳句ワンマイル」

辻 桂湖編集長のエッセイと俳句のページです。

 

 第27回   後ろ姿

 

               辻 桂湖

 

 包丁の切れが悪くなると父を思い出す。

 

幼少期に母を亡くした父の家では、父の姉たちが台所の用事

 

をしていたこともあり、祖父が「これは男の仕事だ」と包丁研

 

ぎを率先していたと聞いている。伯父、父もそれに倣い包丁研

 

ぎは、まめにしていた。なので、伯父の家も私の実家も他人が

 

びっくりするほど切味のよい包丁だった。母の友人が遊びに来

 

て台所に立ち、包丁がよく切れるので「ああ、怖い。」と言う

 

と、決まって父が「切味の悪い包丁を使うから、指を切るんや」

 

と言っていた。はてさて、どちらが正解か軍配の上げようがな

 

い。伯母たちは、実家である伯父の家の包丁は羨ましいようで、

 

「包丁はこうでないと」と言い、自分の主人は何も家事をしな

 

いとキッチンで一頻りぼやいて帰るのがお盆の恒例行事のよ

 

うでもあった。

 

私は実家からバスで四駅の所に嫁いだので「そろそろ切れな

 

くなるころだろう?」と父が包丁研ぎをしに来てくれていた。

 

そのタイミングも絶妙でありがたかった。シャカシャカと音を

 

立てて黙々と作業をし、庭に持ってきた牡丹や鈴蘭を植えた。

 

やや猫背になった父の後ろ姿を今でも思い出す。帰りには決ま

 

って、私の淹れた珈琲を「美味い、美味い」と言って飲んでいっ

 

た。

 

そのころ、小学生だった息子は包丁研ぎをする父の様子を

 

興味深々で見ていて「おじいちゃんの後は僕がする」と言って

 

いたが、父は入院して三カ月程で逝ってしまったのでコツを聞

 

けないままだったと思う。何度か挑戦してはみたようだが。私

 

も重い砥石を出してきて何度か包丁研ぎをしてみたもののあ

 

の切味には程遠く、ステンレス包丁研ぎでシャシャッと済ませ

 

てしまっている。

 

師走も近づいきたので、出刃包丁だけでも砥石を出してきて

 

研いでみようかなと思っている。「下手くそやなあ、貸してみ

 

ろ」と父がやって来ないだろうか。

 

 

 

   父を恋ふ心小春の日に似たる   虚子

 

第26回    鷹渡り終え

                       辻 桂湖

 今年も鷹が南へ帰っていった。

 

昨年は宮古島二泊三日で二羽の鷹の渡りを見たが、今年は鳴門海峡で数十羽見ることができた。鳴門海峡展望台で四国の句友にご案内頂いての吟行会であった。午前十一時、現地で集合して、木の螺旋階段を昇り詰める。正面には鳴門大橋が雄大な姿を見せる。すでに、展望台には立派な望遠レンズを構えた人が十数人、鷹を待っていた。鷹を待つという目的を同じくする者同士はすぐに打ち解け、鷹の話や昨年の写真を見せて頂き、心の準備も万端整う。大きな双眼鏡を覗く人に伺うと、日本野鳥の会の方だとのこと。またまた、鷹のことを根掘り葉掘り質問する。鷹の好きなあなた方は何者かと反対に尋ねられ、俳句をしていますと答える。「あ~そうでしたか」と納得され、しばらくの間、旧知の仲間のように親しく過ごさせていただいた。

 

展望台で写真家、愛鳥家、俳人が嬉々として見守る中、鷹は悠々と鳴門大橋の真上を南西方向へ渡って行く。昨日の天気が良くなかったので絶好の鷹日和で、一羽、また一羽と我々の頭上を渡って行く。遠くで鷹柱が立っているというので望遠レンズをのぞかせていただく。しばらくすると我々の頭上でも鷹が円を描いて飛びはじめた。次々と鷹がその輪に合流して十数羽になった。皆、大興奮である。シャッターをきる者、手を振る者、興奮はマックスとなった。

 

宮古島の三日間は何だったのか、いやいや数千羽の鷹柱はやはり一度は見てみたいとかワイワイ言いながら吟行会会場へと向かった。宮古島ではこの鷹たちが旅の途中に一泊するという。翌朝、上昇気流に乗って数千羽の鷹柱となり、旅を続ける。その一日に出逢うために宮古島へ長逗留する方もいると聞く。憧れの光景である。

 帰宅してからも頭の中で鷹が渦巻いているような状態の私は、新神戸駅集合の野鳥の会のイベントに参加した。皆さん、とても優しくて双眼鏡を貸してくださったり、質問にも丁寧に答えてくださった。鷹の渡りのホームページのことなど伺ううちに鷹の飛行ルートが我が家から近い菊水山であることを知る。来年は菊水山に行ってみますと言うと、鷹は来年の春までお預けだねと言われる。ん?春?帰っていくからには来るわけだ。と、大いに納得。鷹の渡りと言えば秋だと思い込んでいたが、春にも会えるのか。秋と春は渡りの様子が違うのか。益々、鷹が頭の中で舞い始めた。

第25回

 

 過日、ある講座のお隣の教室で「手作り釣忍」なる講座が開かれていた。早速、句友と

 

覗いてみると、涼し気な釣忍の数々と鷺草や小さな蘭の鉢が飾られていた。

 

 まだ、生徒さんがお見えになってなかったので、優しそうな先生にあれこれと質問した。

 

 水苔ではなく、ピートモスで土台を作るとか。国産の材料で作るという先生は「釣忍一筋、

 

四十年」とか。作る、育てる、教える、売る。お話の楽しさに時の経つのを忘れてしまいそう

 

だった。本日の講座の予約は終了していると、言われたので、「来年、是非ともお願いします」

 

と、後ろ髪を引かれながら自分たちの教室に向かったが、来る人来る人に釣忍のことを告げる

 

と皆さん「どれどれ」と見学に行かれた。

 

 句会の後、皆でそっと教室を覗いてみた。出来上がった作品はどれも素晴らしく、生徒さん

 

たちとも話が弾み、いろいろと説明して頂いた。

 

見本の作品をおゆずり頂けるということで皆でワイワイと品定め。

 

お気に入りを分けて頂き、ご機嫌で帰路についた。

 

 

 

    お手入れのこつをうかがふ釣忍     桂湖

 

 

 

第24回  

        オシューミさんのおばあさん

 

                       

 

 朝顔の季節がやってきた。

 

最近ではトレリスと呼ばれる網や木枠にゴーヤを這わせて緑のカーテンとして楽しむ家が多いが、私の子供の頃は、荷造りの紐などを格子状に結んで朝顔を這わせて楽しむ家が多かった。

 

夏の朝、起きると二階の窓を開けてお隣の朝顔の数を数えるのが

 

小さい頃の私の日課であった。そんな私にお隣のオシューミさんのおばあさんは「けーこちゃん、今朝は十二個も咲いたよ。見においで」と必ず声をかけてくださった。私は、穏やかな笑みの小柄なこのおばあさんが大好きだった。

 

朝夕、必ず米のとぎ汁をたっぷりと与えられた朝顔は毎年、見事な花を咲かせていた。大輪の綺麗な花には必ず、白い布きれをつけ、その布に「大輪、紅、白フチ」とか「紫、フイリ」とか墨で几帳面な字で書かれていた。これは、朝顔が枯れるとその布切れごと種を

 

採り、来年に備えるためであった。小さな草も引き、庭の周りもきれいに整えられた庭であった。

 

 おばあさんは夫と二人でこの家に住んでいた。おじいさんは、私などにはニコリともせず、その庭で歯を磨き、外の水道で大きな音をたててうがいをしていた。この水道はお隣さんと我が家の真ん中にあり、お互いの洗濯や庭の水やりに使っていた。そのつど、お互いの家からホースを出してきてつないでいた。水道代云々と言わないおおらかな時代であった。おばあさんは忙しく毎日家事をしていた。特におじいさんの食事の用意がたいへんそうだった、というかそう感じた。おじいさんはこの時代の人には珍しく、朝はパンを食べていた。それも決まって体にいいからと、ぶどうパンをしゃべることなく黙々と食べていた。おばあさんは大きめのぶどうパンの上の茶色い所を丁寧にめくって取っていた。おじいさんが歯がわるいからと、いいながら。我が家ではそんな食べ方をすると叱られたので、それだけでお隣のおじいさんは特別な人だと思えた。ほうれん草のお浸も毎食食べていた。胡麻ではなくてピーナッツで。おばあさんはそれに使うピーナッツを擂鉢でゴリゴリ磨っていた。今思えば、元祖健康オタクといえそうなこだわりの食事を毎日変わらず続けていたおじいさんである。

 

ある日、お庭に小さな離れが建った。「孫が受験勉強のためにやってくるのよ」とおばあさんは言った。ほどなく、背の高い眼鏡をかけた青年がやってきた。庭の勉強部屋の窓にはいつも電気がついていて、夕方にはその青年は庭の隅でビュンビュン縄跳びをして部屋に入っていった。その夏、やはり朝顔は美しく咲いたが、おばあさんは私を手招きで呼び、小声でしゃべるようになった。その後、我が家も引っ越しをし、この青年の受験結果やその後のことは、尋ねても答えてくれる人もいなくなってしまった。

 

オシューミさんのおばあさんの苗字が「鴛海」であったと私が知ったのはこの後ずいぶん経ってからのことである。私の両親もオシューミさんと呼んでいたと思うが、「けーこだけがこの呼び方だった」と、亡くなった父は言い続けた。先日、母に「朝顔を綺麗に毎年咲かせていたおばあさんがお隣にいらっしゃったよね?」と、尋ねると「ああ、オシウミさんね」と返事がかえってきた。確かに、しっかりとオシウミさんと聞き取れた。卒寿を超えた母は二本のインプラント以外は自分の歯で、入れ歯をしていない。年の割には活舌もよい。私の耳がよくなったのか。いや、聴力は落ちているはずだ。娘に「テレビの音が大きい」と最近よくいわれる。どうも腑に落ちないが、私の記憶の中で朝顔の花を数えているのはオシューミさんのおばあさんなのである。

 

 

第23回 二月三日の吉田山

 

               

 

 昨日、早朝より京都吉田神社へ出掛けた。

 

午前八時より本宮、大元宮での節分当日祭が

 

執り行われた。覚悟していたほどの寒さでは

 

なかったので一安心ではあったが、京都の底

 

冷えはややこたえた。神事の間中、烏の声が

 

吉田山に響き渡っていた。

 

大元宮の正面には厄塚がすっくと立つ。逆

 

さ向きの龍の形を模したといわれ、まず、こ

 

れに触れてから参拝すると神職に教わる。て

 

のひらを通して神様とつながり清められてい

 

く気がする。厄塚は八角形の台に藁、注連縄

 

が巻かれ、榊、百日紅の若芽が挿され、てっ

 

ぺんには芒の穂が風に揺れていた。百日紅の

 

若芽が赤く美しい。龍の髭を模していると聞

 

き、納得する。

 

 抽選券付きの福豆や八ツ橋など買いながら

 

露店をひやかし参道を下る。昨夜の追儺式の

 

華やかさもなく、早朝のため、露店も準備中

 

が多い。大混雑の様子を想像して来たのでや

 

や拍子抜けした。次の目的地である須賀神社

 

へとむかう。

 

 赤い幟を立てた神社の石の鳥居をくぐると

 

お目当てのあの方に出会う。烏帽子、水干姿

 

で白い布で顔を隠し、梅の枝を肩にしている。

 

その方の名は懸想文売り。白い布から目だけ

 

が見えている。いつもは気になる入口のお饅

 

頭に目もくれず、お傍に突進。早速、懸想文

 

をうけることにした。懸想文は縁結びだけで

 

なく、箪笥に仕舞うと着物が増え、鏡台に仕

 

舞う美しくなるという。私たち一行のテンショ

 

ンは最高潮となり、各々懸想文を受け、しっ

 

かりと記念写真までお願いしてしまった。

 

斜め前の聖護院門跡の山門前には、赤、黄、

 

緑の屈強な鬼さんがウーウーとうなり声を上

 

げて大泣きの子供と写真におさまっている。

 

私も緑の鬼さんと写真を撮ってもらう。この

 

鬼さん、フレンドリーというか、何というか、

 

肩をくんできた。大笑いしてしまったので、

 

いい土産話用の写真が出来上がった。ホーム

 

ぺージに「どちらが鬼さんでしょう」と、写

 

真をアップしろいう声もありましたが、二人と

 

も意外に恥ずかしがり屋さんなので遠慮してお

 

きます。

 

 お迎への追儺の鬼のなれなれし 桂湖

 

第22回  小豆島の虫送

 

                      

 

虫送はホトトギス歳時記には十月の季題として掲載されているが、小豆島では七月の半夏生の日に行われる。詳しくは「円虹」平成二十七年十月号で地元の山本照雪氏が書かれているが、今年、円虹香川句会の皆様の多大なるご尽力により吟行会が行われた。十年前に弘子前主宰もいらっしゃったので懐かしく思う方も多く、その時の話を聞き、憧れ続けた方も多い。今回は四国の方はもとより、九州からもご参加と聞き、我々関西チームの期待は増すばかりとなり、当日を迎えた。

 

雨が降れば虫送の行事は中止と伺っていたが、晴れ女の佳乃主宰がご一緒なので安心しきって夏帽子とサングラスという出で立ちで新幹線に乗り込んだ。岡山駅で、バスに乗り換え、フェリー乗り場へ向かう。と、晴天の霹靂とはまさにこのこと。霧のため乗るはずの便が欠航という。確かに、目指す土庄辺りは霧の彼方であった。高松のSさんケータイに何度も電話するがつながらない。前出の地元のY氏のご自宅へ電話する。もう半泣きの自分の声が情けない。「引き返して高松から行く方法もあるが、その場でしばらく待つ方がいいでしょう。こんな時はケ・セラ・セラです」とのお声に冷静さを取り戻した。ゆったりとしたY氏の口調も懐かしく、再び旅心が甦る。一便後といっても一時間後であるが、乗れそうだということがわかり、再び連絡を入れる。本日の吟行地を少し減らしましょうということで、尾崎放哉記念館を泣く泣くパスして、フェリーも無事出港となった。

 

国民宿舎のマイクロバスで中山千枚田、農村歌舞伎舞台へ行き、そこでみなさんと合流する。千枚田を流れる水音に暑さを忘れ、農村歌舞伎舞台の草桟敷で久闊の挨拶を交わす私たちを青蛙が見上げていた。昼食の後、多聞寺へ向かう。本堂で大般若経の仏事、虫塚で虫供養の参加。いよいよ離宮八幡宮へ向かうとすでに地元の子供たち集まっていて、火手(ほて)と呼ばれる松明についての諸注意を聞いていた。「観光客の方もどうぞ」と言われ、火手を手にする。直径十五~六センチほどの竹の先に布が挟み込まれしっかりと結わい付けられている。なかなかの重さである。係りの方に灯油を浸していただき列に加わる。順番に火をつけて頂き、田の畦道を前の人に続く。どうやら子供の行事らしく、親につれられた子供たちが火手を手に歩くと沿道から大人たちが声をかける。こうして毎年続けられ、三百五十年あまり受け継がれてきた行事である。畦道の風景はそのころとあまり変わっていないように思え、懐かしささえ感じる。蓬莱橋までの約一キロの道のりは、暑さと火手の重さで結構きつい。蓬莱橋でお菓子とジュースが配られるのが目に入り、お菓子はご遠慮してジュースをいただきましょう。と、勝手に考えていたら、「これは子供会です」と、微笑まれ、恥ずかしい思いをした。橋のところに自動販売機があったので「ビール買いましょうか」と声をかけたら「お宿のビールまでがまん、がまん」とKさんに言われ素直に従った。

 

蓬莱橋の下では皆が運んで来た火手を燃やす。竹が勢いよく爆ぜて、だんだん暗くなる山へむかって煙がたなびいていった。詳しい吟行記、皆さんの御句は九月号「円虹」に掲載予定。乞うご期待               

 

                    桂湖

 

 

 

第21回   蛍袋の咲くころ 

 

                      

 

都会の汗がすっかり乾き、叡山電鉄が鞍馬駅に着く。今年は駅のホームに溢れんばかりの風鈴が吊され、耳からも涼しい。いつもの赤い大天狗に迎えられると、お団子屋の軒先に釣荵が小さく揺れていた。穏やかで涼しい風に夏帽子を脱ぎながらそぞろ歩く。川音に誘われるように鞍馬川を覗き込むと、川音に向かって蛍袋があちこちに咲いている。川縁の石の間から鞍馬川に身を乗り出すように茎をのばして、どれも大きな赤紫の花を付けている。この大きさは鞍馬の自然の恵みを充分にうけているからか、鞍馬の天狗に夏を告げているからか。なぜか、ふと安心する色、形である。蛍袋は、この釣鐘状の花の中に蛍を入れて愛でたからこの名がついたともいわれている。昨夜、雨が降ったからか、偶然にも昼の蛍がどこからか飛んで来た。さすがに蛍袋の中には入れなかったが、しばらく蛍の観察となった。時間があれば夜もゆっくり蛍狩りなどしたいのに、残念であった。

 

宿根の山野草である蛍袋の花ことばは正義、忠実、貞節であるという。毎年、同じ頃、同じ場所に咲くのでこんな花ことばをもっているのかもしれない。最近、生花店でよく見かけるカンパニュラは蛍袋の園芸種であるが、庭の隅にこの蛍袋を咲かせてたく思うのは私だけではないのではないかと思う。しかし、都会より野山の風を好む花はそっとして、また、夏になったらここに会いに来ればいいと思いなおした。

 

 

 

今日六月二十一日は鞍馬寺で竹伐り会式が執り行われる。竹伐り会式の起源は宇多天皇の御代に遡り、大蛇伝説の故事に因む。その大蛇に青竹を見立てて伐るのが竹伐り会式である。江戸時代の中頃から、近江、丹波の座に分かれて勝負伐りをするようになったという。竹伐りをするのは鞍馬の僧兵の姿そのままの勇ましい大惣法師仲間である。黒の素絹を着て、五条袈裟を弁慶かぶりといういで立ちである。導師の檜扇を合図に竹を一節とびに五段に伐る早さを競う。刀で伐る竹が飛び散りなんとも勇壮である。結果は五年連続で丹波座の勝利であった。本殿での竹伐り会を終え仁王門にたどり着く頃は真昼の暑さが嘘のような日差しとなる。そして、このあたりの時間から、鞍馬に宿る不思議な力に魅入られることとなる。蛍袋のそばの小さな橋を渡ると趣向をこらした京料理が自慢のお宿がある。クーラーが入っているのかと思うほど涼しい館内にはそこここに山野草のしつらえがある。鱧も美味しい。二階の廊下の窓からは鞍馬寺の山門が見える。火祭りのころは、いつも満員で予約は数年待ちということである。冬の牡丹鍋もいいなあなどとぼんやり考えているうちに帰宅の時間になってしまった。お宿の小さな橋で立ち止まり鞍馬川の音を耳に、蛍袋を目に焼き付けて、大天狗の駅へと急いだ。

 

 

 

  釣鐘草やさしき嘘を隠す場所      桂湖

 

 

 

第20回      君若々し

 

 

絵の中の君若々し子猫抱き   大木あまり

 

 

 

もう、十年以上前の「この子猫はちいさな女の子だと思うのよね」という山田弘子先生の声を思い出す。

 

 

 

生まれて間もない女の子を抱いた青年の写真が我が家には三枚ある。青年はどれも若い命が漲り、美しい。赤子は彼らの腕の中でまどろんでいる。青年はこのあと、命の限りこの赤子を愛し続ける。文句なく、絶対的に。一番古ぼけた写真の中の青年は、自分の死の直前までこの赤子の手を握り続けた。彼は病に蝕まれた体を病室のベッドに横たえ、薄れゆく意識の中、最後まで残った唯一の器官である聴覚をたよりに娘の声のする方へと顔を向け続ける。自立呼吸が途切れ、娘が叫ぶ「お父さん、息するの忘れてるよ!」その声にはっと、われに返ったようにまた、彼は呼吸を始める。「お父さん、私の手ぎゅっとにぎって」わがままな娘は最後の最後まで無理難題をいう。しかし、彼はしっかりそれに応える。何度、それを繰り返しただろう。彼の妻が「もう、逝かせてやって」と、娘に声をかける。自分の無理難題にようやく気付いた娘は、ようやく彼に声をかけるのをやめる。と、同時にかれの意識はなくなり、こん睡状態に入る。命の尽きるまでとはこのことかとも思う。

 

 カラー写真の青年も、真新しい写真の青年もこのような最期をむかえるかどうかは不明であるが、前者は、成長した娘との夕食のひとときを楽しみとし、晩酌の折に彼女が一緒なら酒の肴は一品少なくても良いとまで言う。真新しい写真の青年は小さな娘を抱きながら自分の母に「お母さん、天使さんだよねえ」と、しげしげと腕の中の娘を見つめていた。現在は、はやりのイクメンとして奮闘中であるが。写真の青年たちはそれぞれ、筆者の、父、夫、息子であるが、皆、第一子は娘である。それぞれの写真からは若々しい青年のおだやかな幸福感が漂う。

 

 

 

「若々しい君」が、青年ではなく若い女性であったらどうか。若い女性が小さな子供を抱く絵は、宗教絵画のようで命の賛美にあふれ、それが前面に出すぎて、詩情からはやや離れるかもしれない。若い女性には本物の猫を抱いた絵の方が俳句的だと思うのは私だけか。竹久夢二の黒猫を抱いた絵、葛飾北斎の肉筆画「美人愛猫図」などをあげるとこができると思う。大正時代、江戸時代と社会的背景は異なるが、モデルの女性像にかなり、肉薄できるように思う。胸に抱く猫はモデルの女性の中から出てきたような錯覚に落ちるほど、女性と猫が一体化している。そして、女性が猫を天使のようだとは間違っても思っていないことは、明白である。むしろ、自分の業のようなものを飼い慣らしているようにさえ見える。

 

 葛飾北斎には、三女の応為という娘がいた。天才絵師、北斎に「美人画では彼女に負ける」とまで言わせた娘である。父の画業を助けながら、自分の作品も残した絵師であるが、もっとスポットがあたって、彼女の生涯が詳細に解ればいいのにと思う。そして、彼女が産まれた時、北斎ははたして彼女を胸に抱き、幸福感に浸ったのであろうか。などとぼんやりと考えた。

 

第19回   鎮魂のあとの一歩

                

 一九九五年師走の神戸元町旧居留地、私は大行列の人並の中にいた。隣にいるわが夫が「久しぶりやなあ、こんな人ごみ。えべっさん以来や」と言う。相変わらず、声が大きい。静かに!と、腕をつついた。

神戸の街にこんなにも人がいて、寒空の中、天を仰いで行列をしていることに、私も少なからず感動していた。この年の一月十七日未明、あの阪神淡路大震災が周辺の町並を一瞬にして変えてしまった。わが家も屋根瓦がずり落ち、箪笥が倒れ、ピアノが二メートル近く滑って動いた。歩いて十五分はどの実家は、裏の崖がくずれ庭が崩落して、家が大きく傾いた。だれも怪我もなく元気なことを不幸中の幸いと、自らに言い聞かせ、屋根にブルーシートを掛け、実家の両親と共に三か月間、水道もガスも通じないわが家で暮らした。数か月して、子供たちの小学校も再開し、屋根の修理をし、両親は新しい家を見つけて越して行った。

元通りとはいかないが、ようやく生活が整いだした師走だった。「阪神淡路大震災の犠牲者の鎮魂と、都市の復興、再生への夢と希望を託す」という趣旨に重い腰をあげての久しぶりの家族揃っての外出であった。長女は大好きだった担任のО先生を震災で亡くし、ふさぐことが多かった。だれもが、重い心を引きずりながらも犠牲者に心から手を合わせ、新しい年への第一歩を踏み出そうとしていた。眩しいほどの巨大な光の回廊は温かく私たちを迎えてくれた。そして、だれもが己の生に感謝し、明日への希望を灯に頂いた。別の日に、両親はこの神戸ルミナリエを訪れた。父は「何十年ぶりかで、おかあさんと手をつないだ」と笑った。

今年で二十一回目を迎える神戸ルミナリエ。この二十年、生活の雑事に追われ大震災と向き合っていない後ろめたさからかルミナリエはその後一度訪れたきりである。わが家から遠くにルミナリエの尻尾の灯りが見える。煌々とそのあたりが輝いている。息子は震災の記憶を胸にライフラインを整える職に就き、赴任地の青森で東日本大震災に遭った。若き企業戦士として自衛隊と共に女川の復興に携わったようだ。筆舌に尽くしがたい現場での作業の様子を彼は逐一話して聞かせてくれた。あれからもう数年の月日が経つ。

荘厳な光はLED電球となり、自治体や商工会議所、観光協会等が神戸ルミナリエ組織委員会を立ち上げ、開催している。昼間、開催場所を通ると、その構造に目をみはる。また、ひとつひとつ手作業で電球をつけていく様子は、一見の価値があると思う。  

自分の中のこの二十一年はあっという間のことのようでもあり、思い返せばいろいろなことがあった。しかし、震災のことに関してはすっきりと整理のつかない思いが強い。咀嚼しきれずに、飲みこんでしまった違和感に似ている。もう一度、しっかりと振り返るためにも今年のルミナリエに行ってみようかなと思いはじめた。自分の中の深い傷に正面からしっかりと向き合える時期がきたのかもしれない。あの眩しすぎるほどの灯を気後れする思いで見てきたが、あの灯の量は心の傷を癒し、跳ね返すために必要な量なのかもしれないと思えるようになった。

 


第18回 句座の芒

      

自宅での句座がある時、先師、山田弘子は度々、いそいそと厨に立たれていた。雑用係要員の私はその日も早めにご自宅へ伺った。師は大きな鍋からゆで上がった小芋を笊に上げていらっしゃるところだった。「ほらほら、衣被ができたよ」と湯気の向うから迎えてくださった。一つを摘み上げ指で皮を押し、ふうふうと吹くと口に入れ、よしよしと声に出して満足気な笑みを浮かべ「はい、味見」と私にも一つくださった。熱々の小芋に舌鼓を打ち、師と顔を見合わせた。厨でこうして過ごした時間が今となっては、とても愛しい。

句会の準備も着々と整い、三々五々、メンバーが集まる。「崖の芒を切ってきてちょうだい」という、師の声にベテラン俳人のお一人が「はい」と、返事をされた。「だめ、だめ、滑ってころんだら、たいへん。桂湖ちゃん、行って」と御指名がかかった。その頃の私は今より十歳は若く、体重も軽かった。師の自宅の前の崖はかなりの斜度で松の木等が生え、夏には、高砂百合が自生していた。俳句初心者の私は芒になど目もくれず、その日、その横を素通りして句座に来ていた。

花鋏をお借りして、芒の崖に向かった。

 南向きの斜面には芒の叢がそこここにひろがっていた。銀色の穂を神戸の海に向けて風にそよぐ姿はとても美しかった。ここで、自分の俳句を詠むなどという余裕も発想もない私はただただ、形のいい芒を探した。そして、蓬けた穂でテーブルが汚れてはいけないかと思い、若い穂を選んでかなりの量を伐って帰った。師は大振りの壺に芒を活け、こんもりと盛られた小芋、いや、衣被を句座の中心に置かれた。その日の句座は衣被と芒で盛り上がった。蓬けた穂もあったほうがよかったとはあとになって知ったことであった。俳人は蓬けた穂も愛でるのである。

 自然のままをそのまま句にするという奥の深い文芸の入り口に立ったことを私が自覚するのはそれからだいぶん時間が経ってからであった。

 

  分け入りて芒に溺れゆくごとし   弘子


第17回   惜しむもの

                 

 今日も蝉の声が朝から騒がしい。しかし、立秋を過ぎて久しい。秋とは名ばかりとはよく言うたものだと思う。

もうずいぶん前の話になるが、句歴の長い先輩に「春惜む、秋惜むとはいうが、夏や冬は惜しむとは言わない。そもそも、夏や冬は惜しむものではない」と、教わった。心身共に快適な時期を好み、夏の暑さや冬の寒さにじっと耐えてきた年代の方の実感のこもったもっともな意見である。しかし、その場にいあわせた筆者と同年代の面々は口をとがらせて、小声で「夏は惜しんじゃうよねえ」と言い合った。夏の終わりイコール夏休みの終わりの図式の出来上がっている世代の戯言なのかもしれない。また、俳句でいう夏と、実感する夏のずれからくるものかもしれない。

いずれにしても、夏の好きな筆者にとって夏が終わるのは、切なく哀しい。浜辺の海の家の剥げかけたペンキ、色あせたサンダル、ビールの空き缶、楽しかった宴は終わったのである。日焼けのあとの皮膚がぽろぽろ剝がれるのをため息まじりに剝いる姿はどう見ても「夏惜しむ」である。「夏は惜しむものではない」の一言に、毎年、府に落ちない思いを扇子の襞に畳みこみ、私の夏は終わるのである。

ふと、思った。冬好きの人は「冬を惜しむ」のかと。十勝生まれの女子大生が、しばらく娘の勉強をみてくれていた。彼女は雨の日に合羽も着ずに単車に乗り、ほっぺにいっぱい泥はねを付けて我が家にやってきた。中学、高校の時にしていたスポーツを尋ねると、スケートだという。なるほど、十勝の人だ、と思っていると「タイツを履いてね」という。よくよく聞いてみると、頭から続いたタイツだという。「えっ!スピードスケートのこと?」軽いカルチャーショックだった。産まれも環境も好みも筆者とはかなり違う彼女は冬の終わりになると「冬を惜しむ」のだろうか。今は京都のお寺に嫁いだ彼女に一度、尋ねてみたくなった。いや、心密かに「どうぞ、冬を惜しんでくれ」とさえ、思ってしまった。

夏好き人間、冬好き人間、「夏惜む」「冬惜む」の季題認定に一票を投じようではありませんか。

 

 立秋の雲の動きのなつかしき    虚子


第16回  梅干の種 

「円虹」前主宰、山田弘子はほんとうに天真爛漫な少女のような人だった。私にとって、師との出会いは手描き染色に始まる。世が昭和から平成に変る頃、師はまだ俳人と染色作家の二足の草鞋だった。ホトトギスの同人として、また日本伝統俳句協会の幹事として活躍しながら、二十数名の染色の弟子を抱え、弟子たちと隔年の展示会をこなしておられた。改築されたご自宅の三階のアトリエでのレッスンは数名ずつで、各人の作品に丁寧に筆を入れて仕上げてくださった。顔料の混ぜ具合、水の配合、線の抑揚どれもがすばらしく、師に作品の仕上げをお願いするときに「先生、魔法をかけてください」とだれもが言った。作品が素敵に仕上がれば満足して帰れるのだが、なんとかあの技がほしいとレッスンのたびに思った。

 その指導方法は、手を取って教えるというものではなく、ひたすら師の一挙手一投足を息を殺して見るだけだった。

「何も隠さないから、盗みなさい」とよくおっしゃっていた。

しかし、技を盗むのは至難の業であった。師の筆使いや絵の具も混ぜ方の微妙なさじ加減をひたすら真似た。そのうちに師と共に過ごす時間にのめり込んでいった。

 ある日、私たち数人のグループはいつものように朝からレッスンをし、午後からの仕上げの作業に備えて昼食となった。皆がそれぞれ持ち寄ったものに師が一品加えて下さるのが常だった。その日は広島の長寿の俳人さんの健康法だといってその方から頂いた梅干しを出してくださった。やや大振りの柔らかい梅の実はからだによいと言われても全く異論のないところだった。しかし、実だけでなく、種も食べるという。種を割って中の実を食べるのではなく、種を食べると言い、私たちにも食べるよう言われた。そして、その広島の俳人さんがいかにお元気でいらっしゃるかという話を延々とされた。「朝食の時に私も食べたので、食べなさい」と、重ねておっしゃった。種をどのようにして食べるのかといえば・・・飲み込む。ただ、ぐっと飲み込むということだ。一同、目を丸くした。小梅ならまだしも、りっぱな梅である。口々にいかに無茶なことかと言い続けたが、仲良しのJさんに誘われて二人で梅干しをいただくこととなった。梅のお味は今となっては記憶にないが、口の中に残ったりっぱな種をもてあました。「先生、こんなに大きなもの、飲み込めません!」「ぐっと、飲むのよ。ぐぐっと」このやりとりを数回繰り返した。Jさんも泣き言を言うかと思いきや、目を白黒して梅干しの種と格闘している。私も意を決して喉に力を入れた。そしてついに、Jさんと二人、この「ぐぐっと」を成し遂げた。皆の笑の渦の中、種はどこにも引っかからず無事に胃に収まり、めでたし、めでたし、となり午後の作業にとりかかった。二人で胃のあたりがごろごろしてる気がすると言いながら。

 数日後、まだ梅干しの種を召し上がっているのかをと師に伺うと「あれから食べてないよ」との返事。いたずら好きの少女のような照れ笑いの師と呆れ顔の私は一瞬で大爆笑となった。平成七年、円虹創立のメンバーにJさんと私は名を連ねた。

 あの梅干しの一件以来、自他ともに認める「弘子教」の信者となった私である。しかし、苦労の末に大きな梅干しを呑みこんだが、爆発的に健康になったわけでもなく、染色の腕も俳句の腕も師に近づく気配もなく今日まで来ている。

 最近では、俳句に割く時間がかなり増えた私であるが、染色のレッスンも細々と続いている。仲間も今では七人となってしまったが、相変わらず二年に一度の展示会をしている。二年ほど前、七人で新たに水彩画の師についたが、やめていった者が多い。やはり手描き染色は山田弘子に始まり山田弘子に終わるのだと最近では思っている。師亡きあと、七人でレッスンしながら師の作風を追う時、俳句にいき詰まった答えを見つけることもある。「じっと見ていると向うの方からこう描いてほしいと言ってくる」と師がよく言われていたこともその一つだ。抽象的ではあるが「弘子教」信者としては大いに納得の一言である。俳句入門書などには「まず、対象物をよく見ましょう」と書かれていたりするが、向うの方から発する言葉を待つとはいかにも山田弘子らしい感性だとしみじみと思う。そして、あのころの三階のアトリエでの記憶をまた反芻している。五月二十六、二十七日、手描き染色「虹の会」の第十四回展示会を無事終えた。


第一五回 コンビニ現る

 

 近くにコンビニのなかったわが町にコンビニができた、小学校が統廃合になったその跡地に。

舅、夫、娘、息子が通った小学校は地域の三つの小学校と合併し、新しい校名になった。昔のままの校舎はバス道沿いの高い石垣の上にあった。バスからは中が見えないところが防犯上、よいと父兄からは好評であった。しかし、敷地内の何本もの大きな桜の木が倒され、校舎の撤去された寒々とした土地が数年間、風雨に晒された。かつてのこの地での運動会では早朝から三段の重箱ぎっしりお弁当を詰めて、子供に声援を送ったものだった。舅、姑、私の両親、私たち夫婦が子供を囲み、茣蓙の上でそのお弁当を食べた。思い出は遠くに追いやられ記憶の中だけのものになってしまった。

一年余りの工事ですっかり景色が変わった。正門側半分は地域の施設が建てられ、西側半分は石垣ごと取り壊されバス通りから出入りできるように削られた。そこに、ガソリンスタンドとコンビニが出来た。旧市街地ののんびりした雰囲気はどこにでもある近代的な風景になった。見慣れたブルーの店舗が我が町に現れたのである。これで帰宅の時間を気にせずにATМも利用出来るし、早朝の外出にも便利だと私は密かに喜んだ。

三割引きのオープニングセールの人混みを避けて店をのぞいてみた。レジでは細身の学生風の青年が初々しく丁寧な接客をしていた。その他は他の店とは変わらない。なんとなくほっとしたが、味気無さが拭えない。私は何をもとめて来たんだろうとふと思った。あの頃の校庭の隅にあった桜の木が一本でもあれば気持ちが和んだのだろうか。転勤族の息子の子供がこの地域の小学校に通う可能性はない。記憶の中のあの校舎、校庭が鮮やかになるばかりである。店舗の前は広い駐車場で、春の日差しが店いっぱいにひろがっていた。駐車場の傍らのベンチの横を真新しいランドセルを背負ったグループが楽しそうに通り過ぎていった。「むかし、ここは鵯越小学校という小学校があってね」と初対面の小学生に話かけている自分の姿が浮かんだ。それは、数十年後、いやいやそう遠くないのかもしれないなどと、ぼんやりと考えていた。

 薺咲く少し明るき車寄せ     桂湖


 第14回  セーター                 

 セーターを編まなくなって何年経つだろう。母が編み物の好きな人なので小さい頃からよく編み物をした。時計のコチコチという音と編み棒のチクチク触れ合う音の中で過ごすのが好きだ。毛糸の束をクルクル巻いて毛糸玉にする作業も好きだ。子供の頃は両腕に束を通し母が巻く毛糸玉が大きくなるのに合わせて腕を少し動かす係をした。自分なりにこだわりのリズムで。後年、かせくり器なるものを知り、一人でこの作業ができることに驚いた。ハンドルをクルクル回すだけで、毛糸玉はふんわりと巻き上がり見た目にも美しいが、なんとなく好きになれない。

学生時代、キャンパスの中の学生会館にストーブが入る頃になると毛糸玉を紙袋に入れて大き目のセーターを編む生徒が集まった。「わー、いい色ねえ」と声をかけて近づくが必ず、にやりとして「誰の」と聞く。大き目、即ち、彼氏、もしくは、彼氏にしたいと思う人ということは明白である。必然的にストーブの火より熱い話が展開される。

その時期より遡ること五年ほど。国語の教師に聞いた話を思い出す。男らしさを売りにした俳優に恋をした有名歌手が、何としても彼に想いを伝えたくて、ゴッドマザー的な女優に相談したという。海千山千のゴッドマザーは有名歌手に「あなたの一番不得手なものは何か」と尋ねる。「編み物だ」と答える彼女に「手編みのセーターをプレゼントしなさい」とアドバイスした。素直な彼女は必死の思いでセーターを編んだ。出来上がりは想像を超えて、不出来なものであったので「こんなものは渡せない」と落ち込む彼女に「上出来だ。これを渡しなさい」と言った。その言葉に従い、恋する人にセーターをプレゼントして、二人は結ばれた。今では考えられないほど純な御嬢さんの恋愛話である。

近頃では手編みのセーターは流行らないらしい。なぜかと姪に尋ねてみた。すると、ひとこと、「重い」そうか、手編みのセーターに込められた想いは重すぎるのか。人生の重みを知ってしまったわが身にはいささか合点のいかない現代っ子の思いである。三宮の大きな手芸用品店が外国の雑貨屋に変わってしまったのもこのような理由からかもしれない。

 

 毛糸編むとは昭和の音昭和の手   桂湖


第13回        旅の湯殿


 子供たちが小さいころ、よく旅行した。当時は、テーマパークの全盛期で各地に出来ていった。

子供が小学生になると、旅行クイズなるものが我が家ではやり、帰宅してから互いに問題を出し合って遊んだ。「ここ長崎県は九州ですが九州の県はいくつあるでしょう」など、教育効果をねらったものから、「ホテルの部屋の番号は」とか「途中で食べた五平餅はいくらだったでしょうか」まで様々だった。そのなかでちょっとしたブームを迎えたのが宿の温泉の泉質を問うものだった。娘とふたりでお風呂に入る前に必ずチェックするのが癖になってしまった。

そして、大きな湯殿の滾々と湧く湯の中では小さな反抗期に入りつつある娘も妙に神妙に親に従った。大きな湯殿に圧倒されているのか、慣れない空間への不安なのかもしれないが。また、同じ湯の中に入り、同じ皮膚感覚を共有するとなぜか心の距離が縮まったようにも思えた。

温泉の医学的な効能はさておき、湯に浸ると皮膚の毛穴からその日のいやな記憶までが溶け出していくような感覚になる。

ある年の暮、手描き染色の仲間と忘年会と称して有馬に集った。二十年を超えるお付き合いではあるが、初めての一泊旅行だった。                  

旅の楽しみは何と言っても朝風呂だ。この仲間は皆、てきぱきとよく動くだけあって風呂も早い。のんびりと湯に浸かっていると、遅れて入ってこられた師といっしょになった。二人きりになった湯殿でいろいろなことを話した。師が真顔になって「けいこちゃん、俳句はやめんと続けるんやで」と、言われた。「はい」と即答したことに私で驚いた。

そのように将来の自分について考えもしていなかったが、師の真顔と有馬の湯の魔法にかかったように返事をした。「ほら、月が出てるよ。こんな様子を句にするんよ」と白い月を指さされた。月を眺めていると、師はさっさと湯殿をあとにされた。残された私は四苦八苦でこの月の句に挑戦するはめに陥った。師とは、もちろん山田弘子。師のお膝元で、のんびり染色と俳句を楽しんでいた私の運命の湯殿となった。一か月半後の師との別れなど予想もしない平成二十一年の十二月のことである。はや、五年の月日が経った。

 

 朝月の高さに覚めし冬の宿   桂湖


第12回     好み焼屋                 

 温かい食べ物が恋しい季節になった。この時期になると子供のころの記憶が甦る。夕方、冷たい風の中に、たっぷりとした太い文字のお好み焼きの暖簾が揺れていた光景を。大人たちはその暖簾を片手でひょいと分けてガラガラと引き戸を開けて中に入っていく。その仕草は大人だけに許されたかっこよさのように、子供心には映った。

店の中は、真ん中に大きな鉄板がありそれをぐるりと囲んで椅子が並べてある。隅には冷蔵庫があり食材がつまっている。お好み焼屋のおばさんはいつも愛想がよく、よくしゃべる。二本の大きなテコでちゃっちゃと手早くお好み焼を焼く。手品のように早く焼く手順には全く無駄がない。テコと鉄板の触れる音も小気味よい。焼き上がるとお好み焼にはテコが添えられて出される。そのテコはおばさんのより少し小さい。子供の私には小皿が添えられ、テコはやけどするからと割箸が出される。いつか、テコで上手にお好み焼を食べたいと思ったものだった。

高校生になり、放課後の空腹をかかえ、商店街のお好み焼屋によく行った。そこには大きな鉄板の横にたこ焼き器があった。私を含め、部活仲間の財布にはお好み焼よりたこ焼きのほうがやさしく、たっぷりの鰹出汁に浸かったたこ焼きをよく食べた。ここのおばさんも愛想がよく、「明日は練習試合がある」というとたこ焼きをみんなに一個ずつおまけしてくれた。下町の小さなお店だった。

就職して、最初の勤務地は大阪だった。残業が多く、酒好きの者ばかりの部署だった。定時で終わる日などほとんどなく皆でミナミのお好み焼屋に行くことが多かった。その初回、びっくりした。店に入ると、鉄板は各テーブルにあり、注文の品は具と共に取っ手のついたアルミの入れ物に入れられて出てきた。そして、それを自分で焼くという。そのうえ、焼き方にも各人のこだわりがあるらしい。具を先に焼く者、生地に鰹節を混ぜ込む者、紅生姜を混ぜるか、焼き上がりに乗せるかでも各人の主張があった。恐るべしこだわりの大阪人。粉もん文化の奥深さを知った思いだった。二年程の大阪勤務のあいだには自分流の焼き方を見出せずに終わった。そもそも、お好み焼もたこ焼きも、目の前で焼いてもらうのをじっと眺めているのが好きな私である。

 たこ焼きの列に加はる菊日和   桂湖


第11回      電話今昔                

 

 電話の着信音が鳴ると電話を取り自分の名を告げる。では、電話を掛けた時はどうか。会社や家の固定電話の場合、相手先が自分の目的のところかどうか確認し、自分の名前を告げ、目的の人物かどうかの確認をするか、電話口まで呼び出していただく。携帯電話の普及でこの作業が簡略になった。と、同時にいささか味気なくなったと感じる。

 

若い頃、友人の職場に電話した時の事である。声も話し方もRにそっくりなので話しかけると「少々お待ち下さい。主任におつなぎします」と、言われ赤面してしまった。このデザイン事務所に入社して三年余り、主任になりバリバリ仕事に励むRの笑顔が浮かんだ。その日、学生時代の同級生がひさしぶりに集まった。さっそく、その話をすると、別の友人が「新人さんが仕事だけでなくすべてRの真似をしたら早く一人前になれると思ってるのよ」と言った。Rはまんざらでもなさそうに「うん、うちの事務所、みんなこのしゃべり方」とおどけてみせた。Rの充実した仕事ぶりが手に取るようであった。

 

家の固定電話も随分様子が変わってきている。ナンバーディスプレーや、相手の名前を告げてくれるシステムがある。受話器を取らなくても誰からの連絡かがわかるので困ったことに、家人が家の電話に出なくなった。「家の電話は、何かの勧誘か、お母さんへの電話だから」だそうだ。

 

そして、息子の家には固定電話がない。休日に嫁に電話をかけると、二人でお出掛け中だという。「今、五分ほどいい?」電話が主について回るので新たなる確認事項が必要となってくる。急ぎの用事ではない時にはこの確認が不要なメールが活躍する。息子からのメールは朝6時半から7時半の間に来ることが多い。出勤途中の電車の中からのようだ。メールの内容は必要最低限ではあるが、今日も元気に出勤してる様子の息子に思いを馳せる。

 

また、一人暮らしの米寿の母は家の電話と携帯電話を使いこなす。自分のお友達とは家の電話、妹一家と私たち夫婦とは家族割の無料携帯電話、孫たちにはメール。嫁が「おばあちゃまのメールに絵文字がついてる」とびっくりする。自宅にまだ電話がなく近所の薬局でお電話を借りていたころから、現在までの電話をとりまく生活の変化に対応できている母も最近少し痩せたように思う。

 

 そろそろと言ひ今日の酒あたためむ  桂湖