藤本 たけるの

「俳句、そぞろ歩き」


 

(65) 今年は、日本晴れ!

 

 

 

 去年の収穫祭はひどい雨だった。子らが楽しみにしていた神輿もだんじりも、宮を出発することはなかった。「ワッショイ、ワッショイ! 」という、少し照れながらの掛け声も往来を練りゆくことがなかった。太鼓の音も湿りがちで、力のない秋祭りだったのだ。

 

❖ところが今年はどうだろう、すっかり日本晴れ! 雲のない澄んだ青空が高く広がっている。気持ちいい。ハイテンションの孫たちも、祭りの法被を羽織り、神社のお守りを首からぶらさげて、さあ出陣だ。

 

走る跳ぶ蹴る秋晴の家族たち     弘子    (句集『月の雛』)

 

  浄土までつづく秋晴とぞ思ふ      弘子    (句集『螢川』)

 

 

 

 

❖焼き鳥、焼きそば、綿飴それから金魚すくい。境内はいい匂い。赤い色、金の色。笛も太鼓も鳴り響く。獅子舞の大きな口のカタカタという音におびえて、泣き出す女の子がお母さんにしがみつく。獅子に近づいては逃げる男の子。みんな健やかだ。老いてなお祭りの世話役を引き受ける翁も、健やかだ。

 

  賑わひも一筋町や秋祭           吉井莫生     (「若葉」)

 

 鳩鳴いて秋の祭も終りけり         星野麦丘人   (「鶴」)

 

 

 

❖午前中に町内を経巡った子らの行列も、昼には終わる。終わればまったく静かな普段に戻る。爽やかな日差しと、秋明菊の白い揺れが残る。                         〆

 

 

(64) 読書と、栞……

 

 

 

❖台風が次から次へとやって来て、この秋は禁足状態が続いてしまった。家の中にいて吹き降りの音を聞いたり木々の震えをばかり見て、大丈夫かなあ? などと心細くつぶやいてみるのにも飽きた。

 

句会・吟行会が流れて句を詠む意欲も減少していた。懐かしの友に便りを書いたりするのにはもってこいの時間ではあったのだけれど、書くべき内容が「台風はどうでしたか? 」ばかりというのもつまらない。禁足にも限度というものがあるぞ。結局は、読書ということに落ち着いて、人が貸してくれた本、買ってはいたが未読の本を手にすることになる。句集ももちろんだ。

 

❖「読書」は秋の季題なんだろうな、と漠然と思っていたが、違った。そもそも歳時記に読書という見出しがないし傍題にもない。弘子先生の全句集をみてみたが、『読書会済んで雛菓子配らるる図書室に残つてをりぬクリスマス』という2句を見つけ出したけれど、読書が詠まれているわけではないし、季節も春と冬だ。

 

台風による軟禁状態での読書などは、弘子先生の次の句のほうがピッタリだ。

 

筆硯に親しむことも梅雨籠   句集『こぶし坂』より

 

 

 

❖ぼくの読書にかかせないものは、眼鏡と栞。老人用の眼鏡と複数枚の栞だ。複数枚というのは、本文だけじゃなく、索引や註にも挟む必要を感じるからだ。ふだんから反故紙を刻んで貯めておいたものを、どんどん使ってゆく。それが僕のやりかた。作家の井上ひさしさんは封筒の隅をカットして、小さな三角形の栞を貯めていたようだ、そんなことを何かに書いていた。ページの角を折って栞代わりにするのは、いやだ。

 

 新潮文庫にだけは、紐の栞がついているのをご存知か? 知ってますよね。岩波文庫の「言葉の玉手箱」「本の豆知識」の栞。栞にもいろいろこだわりがあるようだ。読者は栞にこだわらずに、本の中味にこだわるべきなんだろうけれど。

 

❖若かった頃、文芸書といえば筑摩書房と新潮社、中央公論社という思いが強かった。けれど今出版業界も大変らしい。新潮社も大変らしい。けれど僕は、いい文芸書を紐の栞をつけて発行し続けてほしいと願っている者の、一人だ。

                                     〆

 

63)蓮の……。

 

 

 

ふざけているわけでは、無い。が、それほど真剣な心持とも云えることでも無い。蓮の茎がストローの代わりになりはしないだろうか? 枯れてゆく蓮の葉を眺めていてそう思いついたのだ。三室戸寺でいただいた象鼻杯の酒のことを思いだした。あの茎は酒を通す、だからこそ象鼻杯なんだろうと。70爺の考えることではないだろうと感じながらも、わが家の枯れ蓮の茎を切ってストローにしてみた。なんのわだかまりも無く水分が補給できた。

 

❖わが蓮は盛りを終え順番を待ちながら枯れてゆく。枯れ切って茶色になったものを摘んでは隣の植木鉢に重ねておく、やがて土になってゆくだろう。茎の切り口を見ると、田の字の形をしている。四つの空洞に分かれているのだ。だからだろう、あんなにひょろひょろした長い茎が折れずに風にただようことができるのは。表面には小さな棘がある。覆い尽くすというほどではなく、1センチに五つ六つくらい。唇に痛いと感じるものではなかった。

 

 

 

  蓮の香や水をはなるる茎二寸    蕪村 

 

 

❖プラスチックのストローが問題になっているが、そもそもストローは麦わらじゃなかっただろうか。僕らは子供の頃は本当のストロウを使っていたもんだ。手間がかかってコストが高くつくからだろうけれど、ストロウを復活させたらだめなのかしら? と思ってしまう。シャボン玉ももっと楽しくなるはずだ。ためしに使った蓮の茎のストロウは悪くない感じがした。蓮の香りがかすかに口に残って……。

 

 浮世離れしている我が家族は、そのストロウでシャボン玉をしてみたら! などと私を煽る。うーん、やってみるか。四つの空洞がどのような結果を生むのか、楽しみだ!

 

 

 

  蓮の茎散り方の花を支へたる  滝井孝作  浮寝鳥

 

 蓮の茎を詠んだ句はこの2句しか見つけられなかった。茎に目をやる俳人は少ないとみえる。

 

 

 

  蓮白しわが行末を想ふとき   瀬川あゆ女 (春燈

 

                                    〆

 

 

62)歳時記そぞろ……

 

 

 

 ほとほと暑いこの時期にいまさら歳時記などとは、なにごとか? って汗まみれの声が聞えてきそうだ。

 

 

 

❖じつは今朝、新聞の投稿欄で歳時記をひもといてみたらいいですよ、という記事を読んだのだ。(毎日新聞728日朝刊『みんなの広場』欄67歳の婦人の投稿で、この欄にかつて取り上げられた高校生の「日本語を深く学びたい」という投書へのアドバイスというかたちで、俳句歳時記を慫慂していた。婦人は俳句作りをはじめて20年になるという。いまでは季節の移ろいに敏感になり、自然に目が向くようになり、どこに行っても発見があって日常において暇を持て余すことがなくなった、と云っている。そのとおりだなあ、とまったくの共感を覚えたのだ。くだんの高校生にはとてもいい示唆だと思った。

 

❖僕もそういえば、名前は失念したけれど先輩にすすめられて、虚子編の『記時歳新 版訂新』を買ったなあ。昭和46年のことだ。黒い皮装の「再改版」だ。今ももちろん座右においてある。ボロボロで皮はあちこちひび割れているが、インディア・ペーパーの、頁数のわりには分厚くない一冊だ。50年近く身のそばにあったのに、美しい日本語がたくさん身についたとは云えそうもないけれど……。

 

❖ちかごろは電子辞書の1ジャンルとして歳時記が採用されているが、旧弊な僕はやっぱり書物がいいな。例句はもちろん目次も索引も一覧性が高いし、なにより縦書きだもの。使い込むにつれてくたびれてゆく辞書って、とてもいい。受験生のころの英和辞典のくたびれ方とはまた違う味わいがあるもんな。俳句会でときどき、隣に坐った大先輩の歳時記に感動することがある。角がまるくなっていたり、表紙を布で貼り直してあったりしていたりするのを見るとおのずから、僕はまだまだだなあって、不思議な劣等感にみまわれる。「何周しているんだろう? 」と思ってしまう。敬意はこういうところに芽生えることもあるのだ。師匠に云われた「歳時記を3周してから」俳句になるということを思えば、隣の席の大先輩には憧れと尊敬がわく。書物の歳時記は俳人の作句の歴史がにじんでいるのだ。電子辞書ではどうだろう?

 

 

 

歳時記のうえではもうすぐそこに秋がきている。星月夜、硯洗、大文字、蜩、新涼、流星、新豆腐などの美しい季題をはやく使えるようになってくれないかなあ。

 

                                     〆

 

 

61) 隠岐は恋しき……

 

 

 

 恋をしてしまっている。老いらくの恋とでもいうのだろうか、隠岐の海、隠岐の風に。65日から7日までいただけなのに10日しか経っていないのに、まだ焦がれていて、海の色、波の静けさ、木々の豊かさに会いたくなるばかりだ。

 

隠岐は、隠岐諸島のことをいう旧国名のことで、一つの島をさしているのではない、ということを知った。四つの大きな島と、百いくつかの無人島からなっているそうだ。鳥取県に属し本州からおよそ50キロメートル北にある。ほぼ京都と大阪間の距離だ。

 

 

 

❖『隠岐後鳥羽院俳句大賞』という俳句大会が毎年催されて、表彰式と合同句会があった。20年前に町起こしの一つとして始められたのだ。そのためだろうか、この催しに参加する遠来の人々への隠岐の人たちの「おもてなし」振りは、ただごとで無くあたたかい。それは後鳥羽上皇が配流されていた時代から今もなお続いているかのようだ。

 

 

 

❖昭和163月、まだまだ寒いこの隠岐を加藤楸邨が訪れ「隠岐紀行」と題した176句を残している。

 

 

 

  さえざえと雪後の天の怒濤かな      隠岐へ

 

  春暁の水脈二岐れ明けきたる      隠岐丸

 

  雪の湾幾千の海月ながれたり      浦郷湾

 

  赭き崖の滴るごとし春没日        国賀の怒涛

 

 

 枯れしもの濤とぶかたへかたなびき   隠岐の牧畑

 

  耕牛やどこかかならず日本海      海士郡

 

  春潮の音の寂しきまつぴるま       ( 同 

 

  春寒き世に遠くゐて枉げざりき       村上助九郎家

 

  その日萌え今日萌え隠岐の木の芽かな (後鳥羽院御火葬塚

 

  隠岐やいま木の芽をかこむ怒涛かな   ( 同 

 

 

 

太平洋戦争が始まるほんの少し前、俳誌「寒雷」を創刊して主宰となった三十五歳の楸邨は、芭蕉への思い後鳥羽院への衝かれる思いがあって旅した。隠岐やいま…の句は、碑となって今隠岐神社の境内に黒々とたっている。

 

 

 

❖大会のあった夜更け、懇親会のあとにさそわれて隠岐神社の一室で地酒をいただく機会にめぐまれた。真っ暗闇の庭に、ぽつんぽつんと明滅する光があった。あれは姫蛍です、と教えて下さった。酔いがただよう我が身には、夢幻の中にいるのかのように思えたのだった。                              〆

 

 

60) 山法師の白、さまざま

 

 

 

❖英王室のウェディングに、えも言われぬ感動を覚えた翌朝、「あのブーケはダイアナさんの庭に咲く薔薇の花でこしらえたんだって」と娘から聞かされた。小さなブーケだった。いろいろと人の心を打つしつらえが世界中に行きわたって、五月のさわやかな風が一陣地球をなでたような感じだ。五月の花嫁は美しい。

 

 「君がもし五月に結婚式を挙げるなら、庭の山法師の花でブーケをこしらえような!」などと、セクシャルハラスメントになり兼ねないことを云えば、長女は「葉っぱの緑もきれいやしねえ」と応じてくれた。満更でもないらしい。

 

❖我が家の狭庭にはいま山法師のほかに、蛍袋、南天の花、庭石菖そして霧島ツツジが咲いている。晩春なのか初夏なのか、なにやら混沌とした季節の変わり目・不純な天候のせいなんだろう、植物のセンサーが早回りしているようだ。けれども、住人の眼は、楽しませてもらっている。

 

山法師雨白く降る太く降る         弘子円虹例句集・彩

 

本降りのあとも平に山法師     西村しげ子雨月

 

丹波より但馬へほたるぶくろ晴れ     弘子 句集『懐』

 

釣鐘草やさしき嘘を隠す場所    辻 桂湖円虹例句集・彩

 

   歓迎の準備万端夕つつじ        弘子 円虹例句集・彩

 

 

❖喜寿を前に、瀬戸内側の温暖な暮らしを捨てて兵庫県との境にちかい岡山県の山奥に移り住んだ句友がいる。生まれ育った故郷に帰ったのだ。一人で仙人のように暮らしている。その大先輩がせんだって「我が家の領内にある樹木に、名前を付けてやることにいたした。ついては貴君も命名者の一人にしてあげよう」ということになり、では山法師があればその木の名づけ親に、と頼んだ。「もちろんある!」という返事だった。いろいろ紆余曲折を経はしたが、『狂乱の山法師』という名を申請したところ、「面白い、それで行こう」と決済をいただいた。後日、狂乱の山法師/命名者藤本たけると筆書きした木の札の立った写真が届けられた。

 

 それだけではなく、領内に置いた岩にも名札を付けたい、という仙人の申し出。えーっ、そこまでなさいますか。領内は名札だらけになるのでは、といささか驚いたりもするのだけれど、『うたた寝の牛石』という名前を申請しておいた。たわむれせんとや生まれけん。五月はひとを愉しくさせてくれる。

 

 

 

  樹に気あり石に意志あり夏の雲   

 

 これは、くだんの仙人の戯れ歌。なににつけても心豊かに遊べる老翁なのだ。

 

                                     〆

 

               

 

 

59)それぞれの、春がゆく…

 

 

 

   私の知っている春は、広い野原からも来たが、それと同じ頃を見はからって、

 

砂丘のあなたの青い海からもまたやって来た。私の生れ故郷は、瀬戸内海の

 

波の音のきこえる小村で、春になると、桜鯛がよく網に上った。それを売り歩く魚

 

商人の声が、陽気に村々に聞えて来ると、村人は初めて海の春が、自分たち

 

の貧しい食膳にも上るようになったのを喜んだものだ。

 

 麦の茎が伸び、雲雀が空でちろちろ鳴いていても、海に桜鯛がとれ出したと

 

いう噂を聞かないうちは、春もなんとなく寂しかった。

 

 

 

 『艸木中魚』(岩波文庫版・19989月)の中の、薄田泣菫の春である。自分にあててみるとそれは、紋黄蝶紋白蝶かもしれない。畑にひろがる菜の花の上をのんびりと舞う蝶をながめては、新学期の小学校へむかう春だ。桜色ではなく、黄色が私の春といえようか。けれど今は、菜の花の上を群れて舞う蝶を見なくなってしまった。幼いころの黄色い夢もときめきも、そう簡単には見ることができなくなったようだ。俳句にすがるほか無いのかもしれない。

 

 

■兼題に桜鯛をいただいた句会・七星会で詠んだ句は「眼と口の二福に酔へり桜鯛」「魚島の桜色してもつれけり」だった。魚島の句は伯父が住んでいた福山・鞆の浦の鯛網のことを想って詠んだ。幼いころのおぼつかない記憶だ。眼と口の句は、机上の詠だ。主宰が採ってくれたのは魚島の句。やはり、まのあたりに観たものは強いということだろう、そう感じた。これからも出来るかぎり「当事者」としての目で見、感動を覚えた物事を俳句にしてゆこうと思えたのだった。

 

  桜鯛瀬戸にあらがふ背を見せつ   佐野まもる(馬酔木)

 

   恍惚と捌かれてゆく桜鯛        山田弘子

 

 

 

蝶はまだなのかもう去ったのか、この春は花が一斉に怒涛のごとく咲き、花にばかり気をとられたせいか、紋黄蝶も白蝶もまだ目にとどかない。蝶の句はこれからだ。先人の作品をよませていただいて夢の中の蝶を思い出そう。

 

  ひらひらと蝶々黄なり水の上    正岡子規

 

  てふてふや人の絶えたる昼のあり  森澄雄

 

  海原へ出て一蝶の黄の高し     山田弘子

 

  花ひらくやうに生まれし蝶の翅    山田佳乃

 

 

 

過日、奈良西の京を歩いた。円虹の吟行会である。雨がしとしとと降り続くそして少し寒いお寺巡りだった。薬師寺・唐招提寺を拝観しては行く春を惜しむ、これもまたそれぞれのうちの、一つの春の終りだった。                   〆

 

 

58)木の芽いろいろ

 

 

 

❖木の芽ばかりを見て歩いている。山辺でも街路も、歩くときに目にしているものは木の芽ばかりだ。いまはそれしか見るものがないかのように。

 

緑色のものが多いのだが、赤もある。尖ったものがあり丸いものがある。植物は迷わないし疑ってもいないように、潔くいっせいに芽吹く。南半球から持って帰ったハナズオウも、生まれ故郷の季節感を忘却して、北半球の季節にあわせて芽吹いている。けなげなものだ。

 

木の芽風髭たくはへし男来る      弘子

 

ぞんぶんに雨降りぐぐぐぐと木の芽

 

白雲の触れては芽吹く雑木山

 

 

 

❖春はすでに冬のなかに潜んでいて、陽と風と雨にさそわれながら穏やかに姿をあらわす。枯れて痩せて、危なげな一本の木からも小さなあおい芽が吹く。遺伝子というものの記憶なんだろうか、植物はだれにも教わりはしないだろうに、迷うことなく時機を決める。

 

  ものの芽や汝に教はりしことばかり    佳乃

 

   芽吹くとも見えず芽吹いてをりしかな   邦男

 

   ひと日づつひと雨づつの木の芽かな  すみこ

 

 

❖3月15日、中之島リバーサイド句会の兼題が木の芽だった。地下鉄淀屋橋駅を出てすぐに公園を歩きながら、樹木の芽吹きを見あげては残り一句を求めていた。そうして拾った句が それぞれの夢語り合う木の芽かな だった。公会堂ではどこかの学校の卒業式が行われるのだろう、袴をつけたお嬢さんたちが大勢立ち話をしている。卒業後の進路のことなどや楽しい思い出を語り合っているんだろう。華やかで若々しかった。

 

もう一句木の芽で出句したのは 地の上に影広げゆく木の芽かな で、こちらの方を特選に採っていただいた。

 

先の句はその後、箕面の山を歩いているとき それぞれの夢語り出す木の芽かな と推敲した。語り合う、を語り出す、と変えたのだ。卒業も入学も若者の心をときめかせ、皆それぞれいっせいに夢を語り出すだろうな。そういう、ほとばしり感があるのではないだろうかと考えて。

 

 

 

❖いま窓からは白木蓮の蕾が見え、散りゆく紅梅が見えている。白木蓮が散り切ったころには桜がまた開花するだろう。一つ歳をとった。

 

                                     〆

 

 

57)波音、春を呼びにけり……

 

 

 

 山田佳乃主宰が第2句集を上梓された。第1句集『春の虹』のつぎの句集、『波音』である。平成24年から28年までの俳句作品の中から、321句を精選して編年にまとめられている。

 

装本の基調色はさわやかな浅葱色で、軽装の、手にとってやさしい句集である。

 

 

 

波音が好きで遺愛の冬帽子    2015年詠、128頁)

 

の句から表題を取られたのだろうか? 弘子前主宰の帽子を被って日本海の冬の波音を聞いている主宰の立ち姿が見えてくるようだ。

 

 

 

❖藤本たけるなりに、未熟な独善で好きな句を拾ってみた。

 

喝采のやうに波打つ夏の蝶     (2013年詠、31頁)

 

 夏の蝶がいっぱいいて、蜜を吸っていたんだろう。あたかも舞台の演者に拍手を贈るかのように、翅をぱたぱたさせながら。「喝采のように」という言葉のあっせんが夏の花野を劇場のように思わせてくれる。

 

 

母の手の仕付を解く春著かな    2014年詠、43頁)

 

 お母上が仕立ててくれていた、新春の着物。それに手を通すのは初めてだ。仕付け糸がまだきちんと残っている。解きながらいろいろのことを思い出す感慨深い初春だ。

 

 

 

水底に夜桜の闇沈めけり      2014年詠、51頁)

 

 艶のある句だ。皇居お濠端の夜桜だろうか? 水の底に闇を沈めるという言葉に、余情があふれている。

 

 

 

春風や首で争ふフラミンゴ     2015年詠、97頁)

 

 長い、ピンク色した首をからめあってフラミンゴは恋敵をこらしめているんだろうか? いかにも春の気配だ。

 

 

 

掘りたての筍嬰の重さほど     2015年詠、102頁)

 

 敵わないなあ、このとらえ方は。子を持つ母でなければ詠めない。けれどなんだか初々しい感動をおぼえる。

 

 

 

闘牛の四肢の歪みて敗走す     2016年詠、137頁)

 

負けた側の姿を句に詠むというのも、あたたかい目線だ。敗走してゆくところまで見届けているのだ。

 

 

 

森澄雄に『作家と含羞』という俳論(昭和31年・雲母12月号)があって、「俳句作家は作家的含羞と作家の言葉」で詠むべきである、と論じている。この句集を読むと、佳乃主宰は含羞を秘め、自分の言葉の選びかたをする俳句作家だという思いが強くなる。

 

 

 

56)初弘法

 

 

 

❖京都・東寺の初弘法は、好天にもめぐまれた日曜日のせいだろう大変なにぎわいだった。弘法大師の月命日21日が土曜・日曜と重なれば人出がふえる。ネットには、こういう日は20万もの人が訪れる、とある。1000以上もの出店があり、骨董品をはじめ古着、創作衣料、古工具などのほか焼きそば、野菜、果物なども売られている。境内ばかりではなく、山門を出た公道にもつらなる。

 

 参詣者は東寺が近づくにつれて心が浮きだってくる。ただ通りぬけるだけの目的でやってくる人はいないだろう。いるとすれば俳人くらいか? いや俳人も何か掘り出しものを見つけてやろうと、句帳と財布を開いているはずだ。店の親爺にほめられたりそしられたり、値段交渉での言葉の応酬が醍醐味、当たり前の儀式だ。弱気をみせたり強気をよそおったり甘えてみたりしては、自分なりの掘り出し物を手に入れる。そりゃあまあ、何百円の物が何十万もの価値があったなんて話も耳にしたことがあるが、宝くじにあたるよりも確率が低いはずだ。自分なりの掘り出し物が、何よりだ。高揚感を買い占めたんだから。

 

骨董の翡翠に思案日脚伸ぶ                                  佳乃

 

   欲得も喜捨もなかなか初大師                                 克巳

 

 

 

❖僕もまあ野心をしのばせて境内を駆けぬけた。「円虹吟行会、どこ行った?」の写真取材をしなければという気持ちがあって、9時には境内にいた。物を見ず景色全体を見るという視線で駆けぬけたのだ。画面に塔は絶対だなあ、人込みも骨董品も、などと考えながら、邪魔にならない場所を選んで立つ。弘法大師の御像に並ぶ人々も、撮っておかねばな、などとシャッターを押す。絞りをかえたりフラッシュをたいたり。その合間にこっそりと小銭を使ったりしながら……。

 

東側からはいって南大門を出た。出たあとだ、僥倖というんだろうか、塀の外の露店で短冊を見つけたのだ。字が好きな河東碧梧桐の短冊がしゃらりと置いてあるではないか。「本まもん? 」「わからん奴はあっちいって! 」「まけてくれる? 」「あっちいって! 」などと応酬したあとに、ええーいという気迫で求めたのだ。

 

  さるを飼うてゐる赤い紐などつけて筥に   碧梧桐

 

 

 

 というものだ。家にもどって岩波版『碧梧桐俳句集』を調べたけれど、この句は載っていなかった。

 

                                     〆

 

 

55)三百、という時間……。

 

山田佳乃主宰が選をしているこぶし句会が、六月に三百回目を迎えた。それを記念して『こぶし十句集』が上梓された。平成十一年の百回記念、二十年の二百回記念につづく3回目となる壮挙である。

 

 

 

❖佳乃主宰はこの序文で、

 

   「こぶし句会は『円虹』が発足する以前からの会で、昭和六十一年の三月からだから三十年以上の歳月がたったことになる。平成二十二年二月七日、山田弘子が急逝したあと本郷桂子さんがしばらく選を勤められ、そのあと平成二十三年の五月より私が選を勤めることとなった。 (中略) この三十余年の間、さまざまな人々が参加されていたが、私の父である山田木石もこの句会に参加していた。父母揃って参加していた句会はここだけであり、こぶし句会は『円虹』の歴史そのものである。」(以下略。原文縦書き

 

と感慨と喜びにあふれた気持ちを述べている。

 

 

❖選者佳乃主宰、世話役の平松綾さんをはじめとした三十一人のそれぞれの句が納められている。

 

たけるの独断で摘録をしてみよう。

 

蛍火を追うて会ひたき人のあり                                          山田佳乃

 

佛讃歌洩れくる校舎冬日和                                              平松  綾

 

居間にまで届く鼻唄春隣/石浦 顕    天道虫くすぐつてゆく頭脳線/今野 響    冬ぬくし過去の消えゆく砂時計/大村康二    冬ぬくし空き瓶ごとの色の影/楠山紫宵    雨蛙嬉しい時も真青なり/小林志乃    世の様の話は尽きぬ炬燵かな/齊藤慶一    今昔に恋は変らず懸想文/竹尾公秀    若竹の道平成の人力車/谷口知行    我が犬と酒を酌みたし十三夜/中村高士    少年の夢にもどらん夏の川/藤本たける    夫の手を握るぬくもりはだれ雪/山口幾    遊牧の空広がりし鰯雲/山口年子    花いばら地図になき村抜けて行く/渡辺令子

 

 

 

❖年の暮れにすばらしい贈り物をいただいて、この一年がこの上もなく良い年だったという気持ちになった。三百の句会の時間の中に自分もいたことを感謝して、新しい年をむかえることができる。

 

 みな様どうぞよいお年をお迎えくださいますように。そして来る年もどうぞ心に残る佳句をたくさんおつくりくださいますように。

 

                                     〆

 

 

54)海坂藩……。

 

 

 

❖藤沢周平句集(文春文庫・2017/9/10・1刷)を読んでいたら、おもわぬ記述にでくわした。周平さんの武家物によく出てくる架空の藩「海坂藩・うなさかはん」のことだ。

 

ある新聞の俳句欄に書いた小文が機縁になって、私のところに静岡の俳誌「海坂(うなさか)

 

から、最近号が送られて来た。

 

   そう書くと、私の小説を読んだひとなら、海坂とは聞いたことがあるような名前だと思う

 

かも知れない。そのとおりで、海坂は私が小説の中でよく使う架空の藩の名前である。だが実在の「海坂」は、静岡にある馬酔木系の俳誌で、種をあかせば、およそ三十年も前

 

に、その俳誌に投句していたことがある私が、小説を書くにあたって「海坂」の名前を無断借用したのである。

 

とあってさらに「海辺に立って一望の海を眺めると、水平線はゆるやかな弧を描く。そのあるかなきかのゆるやかな傾斜弧を海坂と呼ぶと聞いた記憶がある。美しい言葉である。」と続けている。美しい情景をあらわす言葉を、美しい記憶にとどめていたのであろう藤沢周平という作家の記述にであえて、えっそうか! という感じで何故だかほっとした。うれしかった。

 

❖藤沢周平は昭和2624歳から30歳まで肺結核の治療をするのだが、東京都北多摩郡の病院で療養中、仲間にさそわれて俳句をはじめたそうだ。「昭和28年、29年の2年ほどのことにすぎないが」と書いている。

 

 

大氷柱崩るゝ音す星明り    陽炎や胸部の痛み測りゐる

 

   冬雨を聴きをり静臥位を解かず   肌痩せて死火山立てり暮の秋

 

やむを得ないのだろうけれど、険しい句が多い。これらの句が俳誌「海坂」に掲載された周平さんの作品だ。文庫本には54句掲載されている。

 

❖井上ひさしは猛烈な藤沢ファンだった。なにしろ周平さんの長編『蟬しぐれ』を読んでは「海坂藩・城下図」という膨大な地図を手書きしたのだから。精緻な図の上に説明文を加えている。何度もこの小説を読んだにちがいない。

 

❖周平さんが「海坂」に投句していたころの主宰は百合山羽公、相生垣瓜人の2人だったそうで、「いまなお先生と呼ぶしかないほどのある感銘を受けた」と二人への敬意を表現している。瓜人の、

 

 

 

  其処此処に冬が屯しはじめけり      隙間風その数条を熟知せり

 

などの句が好きで忘れえない、と随筆『稀有の俳句世界』に書いている。

 

 

 

❖本当に俳句の世界、俳句の縁というものは不思議に稀有な気がする。      〆

 

 

53)秋の雨降る……

 

 

 

❖ながながと降りつづく秋の雨だった。それでもその下で、秋の祭は行われる。豊年満作への感謝・祈りであるからだろう、やめるわけにはいかない。わが町の社では子らの神輿太鼓がテントの下でひたすら、止む雨を待っている。長い月日、稽古に稽古を重ねてきた幼い少年少女らの奮闘が無駄になるからだ。ほんのすこしの間でもいいから、揃いの法被で太鼓を叩きながら練り進みたい、そう考えるのが人情というものだ。

 

 

 

秋雨を言葉のごとく聞く夜かな       弘子

 

   村祭り灯せど何ともの淋し        小沢碧童

 

 テントを打つ雨が「せっかく我慢してお稽古してきてくれたのに、御免ね」という言葉となって境内を覆っているのかも知れない。「来年のお祭りには、思いっきり太鼓を叩いてね!」と云ってくれているに違いない。

 

 

 

  だんだんに父優しくて秋の雨         野村陽子

 

 雨の境内を一緒に歩いてくれるお父さん。長い雨の日々には、お父さんも本を読んでくれる。ゲームの相手になって負けてくれもする。そぞろ寒い雨の日にはお父さんの優しさがふくらんだような気がする。

 

 

❖土曜・日曜と挙行された村の秋祭りは、けっきょく本殿の庇の下でのソロ歌手のライブ音と、テント張りの屋台の物を焼くにおいだけで終わった。それでも傘を差しながら屋台をひやかしたり金魚すくいをしたり。小学生は健やかだ。

 

  

 

   軒下に濡れて遊ぶ子秋の雨        室積徂春       

 

  顔見知りばかりの出店里祭         宮城きよ子

 

  一村の若返りたる秋祭り           大田尚夫

 

 

 

❖台風21号に備えて日曜日は早やばやと、テントもたたまれた。白熱灯の裸電球も一つ一つ外されてゆき、しどけなく濡れそぼつ八幡大神宮の幟、氏子の幟もみな仕舞われていった。その夜台風の目が紀伊半島に上陸することはなかったが、恐ろしいばかりの暴風が吹き荒れて、八幡様の大楠が揺れていた。

 

秋雨にうちたたかれて今日を生く      志摩芳次郎

 

                                     〆

 

 

52)末枯れ初めし……

 

 

 

 末枯れ初めた兼六園をそぞろ歩いてきた。横からの日差しを受けた草々にまだ朝露がかがやく午前7時すぎ、蓮池門口から入園した。蓮池門までの側溝には、春きた時とかわらず水が滔々と流れている。10月にはいったばかりだのに、金沢の道は早やいささか寒い。人の通りもほとんど無いゆるやかな坂道で、散歩するお年寄りに「兼六園はもう入れてもらえましょうか? 」と聞けば「開いていますよ」と教えてくれた。7時のことだ。兼六園の朝は早い。

 

風音に末枯のはじまつてをり   汀子

 

末枯といふ名苑の順路あり

 

 

❖兼六園には出入り口が七つある。お城側の正門・桂坂口、桜ケ岡口、上坂口、小立野口、随身坂口、真弓坂口そして蓮池門口だ。この七つの入り口それぞれに、まだ暗いうちから係りの人はやって来るのだ。市民のために、そして観光客のために。有り難いことだ。

 

石の街にも末枯のすすむ景     弘子

 

末枯れて来しかさこそとかさこそと  廣太郎

 

なめくぢもまた末枯に従ひぬ     弘子

 

なめくじは見つけられなかったのだが、燈籠のそばの芒の根っ子あたりにはいるのかも知れない。風もなく雨があがったあとの庭園は埃も末枯れている。紅葉はまだしもの感じだけれど、所々ほの赤く色づいた葉を光らせている広葉樹も垣間みることができる。

 

❖芭蕉句碑にご挨拶をして、霞ケ池の方へすすんだ。例のよく知られた燈籠のある池だ。この池の先に桂坂口があってお城への道につながっている。

 

芭蕉は奥の細道を歩いたとき金沢では発句を三つ残している。末枯れた兼六園を歩き、北枝の立意庵が近かった浅野川のほとりを杖をつきながら逍遥したに違いない。

 

❖芭蕉に思いをはせながら出た桂坂口のそばでは、衆議院選挙の演説の声がしている。                                                    〆                             

 

 

51)水引の花と……

 

 

 

目立たないようでいて、なんとなく目立つ水引の赤い花。米粒よりも小さな赤い花が細い茎に1列に、前へならえ! って感じに咲いている。たわむれに先っちょをつまんで、真っ直にして眺めてみたりすると、赤い線になる。もっとたわむれて、下の側から眺めてみたら、真っ直ぐな白い線になった。運動帽を赤組から白組に変えたみたいに。

 

 

 

水引の紅の一点づつ山気      弘子

 

水引草なりに燃ゆるといふこころ    弘子

 

水引に滝のしぶきと深山露      林火

 

 今朝の滝道でたわむれた水引の花には、野分あとのみずみずしさが一点ずつに光っていた。まさしく山気が宿っていた。いや、滝のしぶきが届いていたのかも知れない。道端の一番の低みに、所々あるいはむらがって咲いていた。臙脂色がかった深い紅色。きっと水引草なりの精いっぱいの粧いなんだろう。そいいえば、皇室から戴くご祝儀袋の水引は、ほとんど黒に近い赤だそうだ。

 

 

❖かと思えばやっぱり道の辺には、秋海棠の花が美しく咲いていた。うな垂れているように咲くのは羞恥の気持ちがあるかのようだ。小さいけれど上へ上へと咲く水引の花のあとにこの花を眺めていると、やんちゃ坊主の行進のあとで頬を赤らめる少女に出会ったようだ。

 

 

 

  秋海棠西瓜の色に咲にけり      芭蕉

 

   美しく乏しき暮し秋海棠         風生

 

   書を愛し秋海棠を愛すかな      青邨

 

 水引の花もいいし、秋海棠の花もきれいだ。秋の草花は色が控えめで姿かたちも可愛いいものが多い。この滝道には、雁金草、高野箒、野紺菊もやがて咲く。しばらくは足許を眺めながら歩くことになる、いよいよ仲秋だ。

 

                                     〆

 

 

50)滝地蔵

 

 

 

子供たちの地蔵盆もすんで、京の路地は静かになっただろう。2学期のはじまりが早くなったおかげで、地蔵盆は本当に夏休み最後の一大行事となった。

 

地蔵会や草の匂ひの子が集ひ    山田弘子

 

   地蔵会の路地が総出の支度かな  名越夜潮

 

   大鐘の向かうに小さき地蔵盆     竹尾公秀

 

 

 

京の町では地蔵盆の催しがあちこちの辻でおこなわれる。昔からのご近所づきあいが今もきちんと続いているからだろう。コミュニティーがしっかり存在している、という云い方がわかりやすいだろうか。子供のすこやかな成長を願う親の気持ちは、どこでも同じだ。お地蔵さんを飾り、提灯・幟・床几・お菓子袋の下準備をするのは、その辻あたりで育った大人の役目、子供のころの恩返しだ。町内総出でよろこんで下役を引き受け、支度をしたことだろう。子供たちには最後の夏の思い出となったはずだ。

 

 

 

❖この夏の僕はといえば、朝早く起きて箕面の大滝まで歩き、フェトンチットとイオンをたっぷり深呼吸しながらストレッチすることを覚えた。三か月になるか。高野山へ行った時と、大雨の時を除いて毎日だ。早朝の渓流沿いの道は涼しくて気持ちいい。小鳥が鳴きはじめ、蜩と合唱しているかのようだ。毎朝すれ違う人が三十人くらいだろうか、日が上がらない暗いうちから登りはじめる人もけっこう大勢いる。

 

滝壺の前では、人それぞれが様々なことをおこなっている。体操をする派と、祈りをささげる派に分けることができるだろうか。大声を発するひともいるけれどこれは極めて少数派だ。

 

  滝音の中小説を読む女         山田弘子

 

  滝行者若き男女でありにけり         同

 

  滝壺といふ動の白静の蒼          同

 

さすがに小説を読む人はいないけれど、行をしている地蔵尊のように見える石がある。この石は滝の右側、滝壺の水面から五メートルくらいの高さのところに存在する自然石だ。ずーっと滝水に打たれている。

 

箕面に住んで五十年にもなるけれど、僕はこの夏初めて知った。朝友に教わったのだ。拝むのはあのお地蔵さんに向ってですよ、って。えー? っと云ってしまった。

 

❖見ているようで、見ていない物や事が多いのだろう、人は。ということは意識と視点を変えて見つめ直せば、同じ兼題でも違う句づくりが出来るはずだ、そう信じることにした。 

 滝にあるこの石のことを「滝地蔵」ということに決めた。 

                                                                         〆

 

 

49)極楽の余り風~~~

 

 

 

❖佳乃主宰の『たおやか俳句会』、7月の兼題は夏座敷と麦酒だった。

 

夏座敷というものは都会の日常生活ではほとんど目にすることができなくなっている。京の町家にでも住んでいれば、開け放って風を呼ぶだろうけれど。

 

現代は開口部の少ない住宅が増えて、エアコンをたよりに生活しなければならない。停電などは無いのが前提のようだ。

 

 

 

けれど、東北や熊本の人々は『それは大きなまちがいですよ、世の中何が起こるかわからないんですから』と思っているに違いない。停電や断水はあり得るし長期におよぶこともあるんですよ、と痛切に感じているだろう。電気や浄水が遮断されると現代人はおそらく、原始人以下の暮らししかできないだろうと云われている。

 

原始時代は川の水を汲めば飲めたし、煮炊きもできた。いま我々の暮らしのそばを流れる川の水を手ですくって飲めるという人は少ないだろうし、火を熾して食べ物を煮たり焼いたりできる人も少ないだろう。食べ物を手にいれることさえ儘ならなくなるはずだ。栽培や漁労の経験がない人が圧倒的多数だろうから。コンビニで手に入れるしかできないというのは、少々困ったことなのかもしれない。

 

❖ま、それはそれとして、この句会で夏座敷を『極楽の余り風かな夏座敷』と詠んだ方がいた。清記用紙がまわって来たとき、自分は「極楽の余り風」を理解することができず選ばなかったのだ、恥ずかしい。主宰が講評されて初めてこの言葉の意味をしり、いい言葉、とても嬉しい云い回しだなあ、と感じたのだった。関西では昔からよく使われる表現だそうだ。

 

日盛りの田畑で一仕事を終え、畦にある柿の木陰の下でひと休み。水筒のお茶をしみじみいただいていると、さあーっと涼風が吹いた。そういう時に云うんだそうだ。

 

「ああー、ええ風やねえ。極楽の余り風や! 」

 

 

 

❖句座はとても勉強になる。多くの先輩方が多くの経験を下敷きにして『兼題』を借りて、五七五音の短詩にまとめるのだから。いつか見た景色、様子、色、音。そういうものを引き出しから選んで、リズムを整え省略を重ねて俳句にする。それをすぐに読ませていただくのだ。僕は俳句の会でとても多くの美しい日本語を教えていただいた。極楽の余り風を全身で受け止めてきたのだ。

 

                                     〆

 

 

48) 高野山は……。

 

 

 

霊山・高野山へ、円虹の吟行俳句会のおかげで上ることができた。

 

世界遺産に登録されてからは、フランス人をはじめ欧米系の人々の来訪が絶えないということだ。そのもてなしの一つとして、修行僧の草取りや庭掃除の頻度と量がふえたらしい。作務衣を着た若い僧侶が草を取りながら話してくれた。どの寺院もゆき届いている。清潔感にあふれ緑が美しい。京の寺町とはなんとなく違う。杉をはじめとした豊かな樹木、草花のたたずまいが人の心を安んじてくれるのだろう、静かでもある。まだ暗い早朝の高野山には音がしない。ただカナカナが、心をゆさぶるようなかそけき鳴き声を時おりひびかせてくれるだけだった。

 

 

 

■鳴き声をききながらライトアップされた巨大な根本大塔のまえで手を合わせていると、厳粛な気持ちになってくる。宇宙の揺らぎ、とでもいうのだろうか体の中にその振動が届き、心身を浄化してくれている感じがしてくるのだ。

 

これよりは人々に感謝の気持ちをいだきながら円熟した日々をすごせますように。などと祈りをささげることになったのだった。

 

千年の昔から高野山は、もしかしたら人々を本来の心に立ち戻らせてくれるのかもしれないなあ、などという思いが浮かんだ。

 

■前師山田弘子も高野山で句を詠んでいる。

 

下闇のその下闇の墓ひとつ              山田弘子

 

  平成5年に高野山をたずねた折の作である。秀次の墓への手向けの句だ。まだ円虹を結ぶ前の弘子前師のこころの葛藤がしのばれるのではないだろうか。

 

 

 

  敵味方共に眠らせ夏木立       山田佳乃

 

  織田信長が眠り、明智光秀の墓がある。豊臣の墓所があり徳川吉宗の墓碑がある。深い夏の杉木立の静寂の中に。霊には敵もなく味方もなく、ひとしいのだ。そのように受け止められる奥ノ院ありがたさ。

 

 

 

■俳句結社の誌友が数十人も揃い、和気あいあいと一泊の吟行を実行するというのも近ごろはとんと少なくなったと、聞いたことがあるが円虹はまだまだ結束が固くあたたかい。下準備をする人、応援する人、それに何よりも「万が一のアクシデント」をも覚悟して受け入れてくれる主宰がいるからだろう。

 

 

 

 高野山の宿坊の窓から入り込む風のなかには、どうやら慈愛とでもいう素粒子が含まれているようだ。

 

                                     〆

 

 

 

 

 

 

47)朝に……。

 

 

 

❖「今日は見よい枝にとまっていますよ」「まあ、ほんとほんと」……。

 

 青葉木菟のことである。眺めるのを楽しみに、杜を歩るきのぼる人はたくさんいる。うしろを歩くお婆さんに声をかけた。お婆さんは「朝は気持ちいいですね」と云いながら青葉木菟に見とれている僕を置いて滝へ向かった。

 

朝は、きのうの哀しみを流し去ってくれ、きょう一日の平安を約してくれる、そういう気配があって「気持ちいい」と思わせてくれるに違いない。

 

❖昨日は、京都への吟行俳句会があって朝の山歩きを省いた。準備をせずに床にはいってしまったからだ。それがどうだろう、今朝、いつも5時過ぎにすれ違う老翁が「昨日はお休みでしたね」とおっしゃったのだ。「はい、少し用事がありまして」と応えながら、ああこの方は僕のことを見ていてくれたんだ! などといい加減な受け止めをしたのだった。ありがとうございます、と心の中で唱えた。こういうことが人を優しくあたたかく育ててくれるんんだな、きっと。そんなふうに、一日を始める朝もある。

 

 俳句の世界では、存問というのだろう。あなたお元気ですか、あなたのことを大切に思っていますよ、と。存問とはそういうことだろう。

 

存問という挨拶句も大事な分野だ。挨拶句の名手と呼ばれる虚子、万太郎には多くの追悼の句が残っている。我が師匠山田佳乃には有名な句がある。

 

二月七日 弘子逝去   早春の虹を探しに行きしまま     山田佳乃

 

 

 

❖先達の追懐の句を拾ってみる。

 

             子規逝くや十七日の月明に     高浜虚子

 

子規忌               雨に暮るる軒端の糸瓜ありやなし  芥川龍之介

 

菊池寛逝く。告別式にて   花にまだ間のある雨に濡れにけり  久保田万太郎

 

澄江雅兄逝く           新竹のそよぎも聴きてねむりしか   室生犀星

 

緒子さんの為に(略)     有る程の菊投げ入れよ棺の中     夏目漱石

 

 長逝の深い悲しみをこらえて冷静に亡き人を偲ぶ思いがつたわってくる作品ばかりだ。師匠の御母堂山田弘子が夫を亡くした折の述懐の八句のなかには、

 

 

 

  秋冷にとり残されてゐたりけり       山田弘子

 

いたはりのさりげなきこと萩芒         

 

などがある。抑えにおさえた俳句ではないだろうか。

 

 追悼の句をよみながら俳人はしずかに深く亡き人を偲ぶのだろう。

 

                                       〆

 

 

 

 

46)大山椒魚と、青葉木菟

 

 

 

❖山が生き生きとしてきた。大山椒魚は長い眠りから目ざめて、のっそりと岩場の陰あたりを逍遥するようになり、青葉木菟は長旅をつづけて来、生まれた場所、育った樹木のそばで子育ての準備をはじめたようだ。早暁の山の散歩が俄然楽しくなってきた。

 

河鹿が、おぼえたての少年が吹く口笛のように、かぼそい音を渓深くひびかせている。糸トンボが眼をさまし、ストレッチするような翅の動かし方で、さしはじめた光のなかをゆったりと飛んでいる。さまざまな小鳥の鳴き声が前後左右から聞こえてくる。なにもかも吸い込むように思いっきり深呼吸をしてしまう。フィトンチッドが体内に浸透してゆくのが見えるような錯覚を覚えながら、当分は万緑の中、木漏れ日を拾いながら歩くことになるだろ。

 

 

 

 滝音に倦みしはんざき動き出す     山田弘子

 

 箕面の滝壺にも大山椒魚(はんざき)がいる。きっとうんざりしているにちがいない。怒涛のような滝の音、30メートルの落差をもって水面をたたくあの音には。けれど動くのはあくまでものっそりだ。4本の脚と大きな尾っぽを使いながら。

 

 

 声を闇に沈めて青葉木菟 

                      佐保美千子

 

 酒ありてながき夕餉に青葉木菟                           片山鶏頭子

 

 そうなんだ、ほーほーと二声なんだ。うちのそばの八幡様の楠木に住みつく青葉木菟は、人が寝静まったころ淋しげに、ほーほーと鳴きつづける。

 

 

 

❖一の橋をわたると、夏鶯が聞えてくる。楓の木の高みにどうやら巣をつくっているらしい。右の木と思えば左の上から聞こえ、左の木からと思うと右方向から聞こえてくる。深い木立にこだまして、鳴き声がさえわたる。

 

 

 

夏鶯の悲願の遠音あるばかり       飯田龍太

 

鶯の声の真下の力石           山田弘子

 

 

 

❖人は歩かねばならない、と若いころ親爺によく言われていたが今70歳になって歩く老人になった。そして、立ち止まってみたときに俳句がうまれるようになった。

 

拙さは母が口笛河鹿鳴く    藤本たける                       

 

 

 

 

45)蜻蛉生る

 

 

 

■わが家のちっぽけな蓮の鉢で蜻蛉が生まれた。昨日の朝早くだ(521日午前6時前)。蓮の葉の成長ぶりを眺めていたら、トンボが翅を水平に広げたままじっとしているのが見えるではないか。そばによって邪魔な葉をどけながら見ていてもまったく動かない。はじめは「あれれっ、トンボも眠るのか? 」などと不思議な光景を発見したような感動を覚えたのだが、「そりゃそうだな、生き物だから眠るよなァ」と、感動をすぐ訂正した。写真を撮っておこうと階下にカメラを取りにいって戻ってきてもまだじっとしている。6、7回シャッターを切った。フラッシュも放った。けれどまだ不動だった。死んでいるのかな、とも思ったのだった。塩辛蜻蛉らしい縞柄をしていた。

 

 

■おそく目覚めてきた妻にいそいそと写真をお見せすると、「右すみに写っているのはヤゴじゃない?」と云ってくれるじゃないか。たまたま飛んできたトンボが、わが家の蓮で一夜をすごしたに過ぎないという考えを訂正、我が家で生まれたという事実に気づかされた。そして新たな大感動につつまれたのだ。大感動を増幅しようと2階の蓮へ戻っても一度確認しようとしてみたが、すでにトンボは姿を消していた。茎に絡んだやごがの抜け殻があるだけだった。

蜻蛉生るかなしき翅をひろげつゝ   夢香

蜻蛉生る朝の泉は息ひそめ     弘子

やごを飼ふ少年の明日充実し    鬼房

 

 もう少年じゃないけれど、やごってどうやって飼うんだろ。どうすると手に入れることができるんだろう? 偶然にやごを飼っていたことになった私としても、残りすくない明日を充実させたいんだから。

 

 

 

■いま箕面の渓流は糸蜻蛉に席巻されている感じがある。日の当たる岩に翅を閉じて、黒いのや青いのや緑色したのがたくさんいる。翅の重さに耐えかねたように、弱ゝしく飛んでいる。河鹿蛙の鳴き声を聞きながら糸蜻蛉をながめていると「よろしいなァ」などとつぶやきたくなってくる。

 

とうすみはとぶよりとまること多き      風生

 

流れゆくものに止まりて糸蜻蛉      りん子

 

 止まることが多いのは、身にくらべ翅が重いんだろうな、ほんとによく止まる。僕のそぞろ歩きのように、止まってばかりだ。とうすみは、糸蜻蛉の別称。燈心蜻蛉という呼び名のなまったものらしい。

 

思いもよらないわが家の蜻蛉のおかげで、蜻蛉は秋、蜻蛉生る・糸蜻蛉は夏の季題という事を学ばせていただいた。ありがとう。       

 

 

44)燕の子

 

 

 

■飯田龍太の随筆集『山居四望』(昭和59年/講談社)の中に「雛いろいろ」という話があり、こんなことが書かれている。

 

 「巣立ったツバメが夕方戻って来て、狭くなった巣に、盛りこぼれるようになってねむる。あれはいい眺めである。

 

盆や正月に、おおぜいの息子や娘が、田舎の老父母のところに帰って雑魚寝する、あの風景に、どこか似たところがある。

 

ツバメが無事に巣立つと、その年はいいことがあるそうだ。

 

 盛りこぼれるようにねむる、というのはなんともあたたかい表現だ。無事に巣立つことを祈るばかりだ。

 

    乗り出してこの世楽しげ燕の子    弘子

 

 ほんとにそうだ。楽しそうにしているように見える。親燕の運んでくれる餌を取り合っている姿でさえ楽しげだ。

 

■けれど今、なかなか燕の子が狭い巣の中で眠るのを眺めることができなくなっている。山裾に広がる箕面でもこのごろは、燕の糞を嫌って巣を取り払うところが多い。商店の入り口、アーケードの屋根の下、駅舎の庇の下に、数年前まではいくつも燕の巣が懸っていたものだった。

 

    商も榮え燕の子も育つ    敏子

 

 「栄える」という縁起をかつぐことも少なくなったようだ。

 

燕は巣から糞をおとすときには真下にしか落とさない。気をつければ衣類が汚されるということもない。それほど嫌うこともないと思うのだけれど……。

 

■藤沢周平の『玄鳥』という作品の中に燕の巣を捨てた悲しみを思わせる場面がある。

 

  つばめがいつごろから来るようになったのかを路(この小説の主人公ミチ)は知らないが、物頭を勤めた亡父の三左衛門をはじめ、末次家の者は誰一人として門のつばめを気にしなかった。したいようにさせていた。それでつばめは、毎年同じころにやって来て門に巣を懸け、子を生み育ててどこかに去って行ったのである。

 

    つばめのおとずれは季節の風物詩だった。そして長くつめたい冬のあとに来る春が、野山にいっぱい花をさかせながらまだどこかに油断のならない寒さをひきずっていたのとは違い、つばめのおとずれは、少しの曖昧さもなく夏の到来を告げる出来事でもあった。

 

 燕は春の季題で、燕の子は夏の季題、ということを知った。ちゃんと使い分けてせめ

 

て俳句のなかで燕のしたいようにさせてやろうと思う。

 

    あそぶともゆくともしらぬ燕かな      去来

 

    つばくらめ來そめし門を掃きにけり     とよ子

 

                                    〆

 

 

43)季題は、エッセンス? 呪文?

 

 

 

■『柿の種』という随筆集でよく知られた寺田寅彦は 夏目漱石の教え子であった。『俳句の精神』(寺田寅彦全集・岩波書店1962年発行/第7)のなかで季題について「濃縮に圧縮されたそうして全国民に共通で固有な民族的記憶でいろどられたもの」と見なし、つづけて詳しく述べている。

 

  「春雨」「秋風」というような言葉は、日本人にとっては決して単なる気象学上の述語ではなくて、それぞれ莫大な空間と時間との間に広がる無限の事象とそれにつながる人間の肉体ならびに精神の活動の種々相を極度に圧縮し、煎じ詰めたエッセンスある。またそれらの言葉を耳に聞き目に見ることによって、その中に圧縮された内容を一度に呼び出し、出現させる呪文の役目をつとめるものである。」

 

煎じつめたエッセンスであり、記憶を呼び覚ます呪文である季題の宝庫・歳時記を継承してきた日本人の一人として、俳句を作ることができるのはとても幸せなことだ。

 

 

 

■かつてミュンヘンでドイツの仲間と俳句について交流を深めたおり、「わが国には歳時記がありません。日本の人々がうらやましい」ということを、円虹に投句しているドイツ人男性がつぶやいた。そうだなあ、と気づかされたものだった。「皆さんでドイツの歳時記をおつくりください。小さなものからでも」などという返事をしたのが傲慢だったか不遜だったか? けれどまあやってゆくしかないように思う。あるいはひょっとしたら、もうすでにあるかも知れない。エッセンスを集めて、やがて呪文にまで成るように、ゆっくりと月日を重ねて。

 

 

■芭蕉の句、さまざまの事おもひ出す桜かな には煎じ詰められたエッセンスが詰まっている。亡くなった藤堂家の旧主蟬吟のこと、あるいは西行のことが去来したのだろうか。

 

  たぐひなき花をし枝に咲かすれば桜に並ぶ木ぞなかりける   西行法師

 

   花にそむ心のいかで残りけん捨てはててきと思ふ我身に      

 

   仏にはさくらの花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば

 

 西行はこの上なく桜がすきだった。

 

 

 

それにしてもこの春は雨の下の桜、今日などは嵐のなか雨風の桜だ。散るようでいて散らない桜もまた心にしみる。

 

  世を恋ふて花菜の嵐吹く中に       蛇笏

 

   生を問ひ死を問ふさくら咲きにけり     弘子

 

   みよし野の桜老いゆく吾等また        ゝ

 

右をみても左をみても、目を閉じてしまっても今この国には桜の花が満ちている。ドイツの句友に見せてやりたいものだ。                   〆

 

 

42)金沢の、春そぞろ……。

 

 

 

■三月の末、桜の蕾のまだ固い金沢の町をそぞろ歩いてきた。いま兼六園に咲く花は山茱萸と土佐水木の黄。赤い椿もそこここに咲き残り、しっとりと張り広がる苔の上にぽつりぽつりと落ちていたが……。長い梯子を幹にしばりつけて、朝早くから松手入れするほっかむりした植木職人の地下足袋もみえる。そしてその横を鼻が高く色白のサングラスのご老人方が、フランス語らしい言葉を交わしながら過ぎてゆく。午前八時半すぎの兼六園。フランスからですか? と問いかければ“ノン、イスラエル”と、返事が返ってくる。それはまあ遠くからようこそ。ウエルカム、平和なこの国へ! などと余計なことを返しながらゆっくり歩いていれば、芭蕉の句碑に行き当たった。

 

あかあかと日はつれなくも秋の風」。芭蕉が金沢で詠んだ句、と立札に記してあった。また秋にこなきゃあ、と思わせる句だった。

 

■小流れや池に出会い水の豊かさに感心していると、ふと、こんな高台にある兼六園なのに、なぜこんなにも大量の水があるんだろう? という疑問がわいてきた。井戸ではないだろう、水道水でも勿論ないだろう。じゃあ? とまでしか考えが及ばないので訊いてみた。犀川から引いているんですよ。石に大きな穴を開けた石管というものを作って、遠く犀川から引いています、ということだった。なんでも、江戸時代にはたびたび落雷で天守が焼けたそうで、消火用水として前田のお殿様がつくらせたのだそうだ。それにしても春の水は強く豊かに流れる。犀川には白山の峰々の雪解け水が大量に流れ込んでいるんだろうなあ、などと思ったのだった。

 

残雪が見える山々を遠望しながら、兼六園をあとにした。

 

■金沢の町は、犀川と浅野川の二本の川にはさまれた小高い丘に広がっている。香林坊あたりにも用水路が暗渠としてではなく、舗装された道の脇を流れている。時間を忘れて流れる水を見、小橋をわたったりしながら路地を歩くのも気持ちのいいものだ。桜にはまだ早い季節はずれの平日に、人が少ない車も少ない街角を歩くにはとても良い城下町だ。おだやかな上がり下がりをゆっくりと歩けばいい。

 

■金沢名物の「おでん屋」を二軒味わった。赤はべん、車麩、梅貝、金沢春菊などを食べ「菊姫」というやや辛口をやりながら。旧友が白山市にいて案内してくれたのだ。おでん屋というが、まあ居酒屋だよ、と教えてくれた。刺身、揚げ物、和え物などもあるし、アイスクリームまである。

 

二軒目を出て犀川にかかる大橋で酔いを覚ましたあと、仕上げに寿司屋につれていかれた。その時のわが駄句がこれ。

 

  犀川の春の夜風や橋わたる

 

   老舗には老舗の間合い春尽くる

 

   春のねた握りつ老いの声たかし

 

 旧友は「天狗舞」を呑みながら、水もなめる。この水のことを「やわらぎ水」と云うんだと教えてくれた。                           

 

 

41)菫咲き、水草生ふ

 

 

 

3月の中之島リバーサイド句会の兼題は「水草生ふ、菫」だった。それぞれ難しいという思いのある兼題だ。水草生ふ、はつかみどころが難しいし、菫の方はつかみどころがあり過ぎて難しい。例句もたくさんあるから、どうしても類想的になってしまいがちだ。

 

多少なりとも新味を表現したいと願い、水草を求めて池や川辺を歩いてみたりもしたが池は普請のあとで水がほとんどなく、水草なんかじゃなくて泥と塵。渓流はまだまだ水が冷たそうで透明感にみちていた。山中の流れには水草はまだ早い。そんな様子だった。

 

■じゃあ菫のだけを5句投句しようと決めて、わが庭の菫を睨んだり嗅いだりいろいろ案じているうちに、なんとかなりそうな気もしてきた。やっぱりよく見て感じ取り、そして案じながら句を待つしかないよなあ、などと虚子先生の『俳句の作りよう』(角川ソフィア文庫、平成21年発行)の影響どおりに納得したのだった。そのうちに水草の方も1句だけだけれど間にあった。並選にいれていただいたその句は「水面には小さき雨の輪水草生ふ」というもので、春の小雨のぱらつく折に川辺を歩いたときの印象だ。

 

■菫の句は、推敲されて準特選に選んで「山祇に菫の花の溢れけり」というもの。おかげさまで山裾の斜面には菫の花が満開です、ありがとうございます。っていう気持ちを詠んだものだ。

 

 

   夕風の匂ひ菫の香にありぬ/弘子

 

 みよし野は歩くに如かず山すみれ/ 

                   弘子

 

 約束は小さき菫の花のごと/佳乃

 まだ水の色に紛れて水草生ふ/弘子

 

■水草生ふ、は出席者のあいだで、難しい季題だなあってささやき声がしきりだった。難しい季題に苦労することも大事な勉強のはずだから、やっぱり水辺に立って虚子先生の句「一つ根に離れ浮く葉や春の水」のように、一つの根から幾つもの葉が出ているのか! というような発見をするまで観察しなければいけないんだ。

 

 春のゆたかな水がきらきら耀き、底に根をはった水草がたゆたうのも、もうすぐだ。

 

                                     〆

 

 

 

                                    

 

 

(40) 水温む

 

 

 

 桃の節句のつぎの日の朝、おだやかな日差しをあびる山道をゆっくりと歩いてきました。陰になり日なたになる道を10分ほども歩けば、あつくなるほどの陽気です。渓流を見れば、水面が逆光をうけてキラキラとしています。深みには残り鴨がいて、首をひょいと水底へつけます。すこしおそめの春が山全体をおおいはじめているようです。

 

  うらゝかや行く山径を疑はず  橙黄子

 

   麗らかにふるさと人と打ちまじり  虚子

 

 そんな気分でいっぱいになりました。カメラのレンズキャップをはずすのが面倒なくらいです。いつものようにいつもの人々とすれ違うのですが、おはようの挨拶も心なしかきらめいているようでした。この季節には土・日と祭日だけ開けている滝前の茶屋のおかみさんが、日だまりに座って文庫本を読んでいます。佐伯泰英さんの「居眠り磐音」をでも読んでいるんでしょうか。長閑です。  

 

  長閑さにおさへありくや膝の皿  

                     鳳朗

 

  仕事無くなつて了ひし長閑さよ  

                     信子

 

 

■滝壺の前にくると、20人くらい若い人々が楽しそうに自撮り棒を構えて記念写真をとっています。暑い国からやって来た観光客のようで、日に焼けた肌がとても健康的でした。春風にさそわれて海をわたって来てくれたんでしょう、朝早く。蝶のように。

 

  忙しさを此処に逃れて春風に  立子

 

  春風の日本に源氏物語  杞陽

 

 山深いあたりも、もう春めいてきていて植物の芽がゆたかになったのでしょう、ここらあたりまで下がってきていた鹿の群れも消えてしまったようです。山じゅうが春たけなわとなるのも、もうすぐです。 

 

                                    〆

 

 

(39)馬酔木の花の 濡れにけり

 

 

 

 雪催いの朝、兼題になっている猫柳の花穂を探しに渓流を歩いてきました。紅葉の名所として名高い箕面山ですからやっぱり柳は見あたらず、リュックからカメラは出さずに終わるかなと、がっかりしていました。それでも一の橋の手前にある料亭の前栽に、馬酔木の花の咲いているのを見つけました。雪がとけて花も葉もしっとりとぬれ、優しい輝きを放っています。白い小いさな、スズランのような花が集まって房状に垂れて咲いていました。

 

 

 

■馬酔木は日本特産の花、だから漢名は無いそうです。奈良公園にはこの木だけが生い茂る純林があり、よく保存されています。鹿が有毒であることをよく知っているから食べないのだそうです。昔から歌に詠まれ、万葉集にも十首はいっています。

 

  吾が背子に吾が恋ふらくは奥山の

 

馬酔木の花の今盛りなり 歌番号1903

 

 奥山の馬酔木の花がいま真っ盛りであるように、私はあなたに恋をしています。という意味合いの恋の歌だそうです。奈良公園の馬酔木のことだったのでしょうか? 

 

花馬酔木春日の巫女の袖ふれぬ     虚子

 

 この句もなんとなく恋の、あるいは憧れ歌といえそうです。春日ですから奈良なんでしょうね。

 

馬酔木咲く奈良に戻るや花巡り                                 碧梧桐

 

馬酔木より低き門なり浄瑠璃寺                                 秋櫻子

 

馬酔木咲く金堂の扉に我が触れぬ                               秋櫻子

 

春日野や夕づけるみな花馬酔木                                草城

 

 こうみると、馬酔木の花は奈良や京都の花のようですが、本州から九州にかけての山地に咲く花です。庭に植えたり生垣にしたりもします。

 

 

 

秋櫻子の句の浄瑠璃寺は、奈良との県境にある京都府木津川市にあって、白洲正子が好きだったお寺だそうです。表通りから、小さな小さな山門まで丈の高い馬酔木が並んでいます。ほかに白木蓮、桜、桃などの樹齢の古い木があり、これらの花が盛りになると、夢の里にきたようです。

 

 

 

■箕面の山の馬酔木も、早春の輝きとみずみずしさがあってなかなかいいものでした。

 

山里の雨にうつむく馬酔木かな     たける                                                                                                       〆

 

 

38)寒、明けよ!

 

 

 

 寒明けが近い雨あがりの朝、久しぶりに地元の山を歩いてきました。渓流も滝も冷たそうではあったのですが、豊かでした。小鳥の鳴き声にも華やぎがあり、艶があるようにも聞こえてきます。寒椿の花ももうすっかり落ちていて、山を彩るものは、鹿に食べ残された青木の赤い実と、高い枝に生る山水木の赤い実くらいでしょうか。麓には万両千両が美しいけれど……。

 

 詩因を探しに歩いたのですが、なかなか心がときめきはしませんでした。「詩因」という言葉はあまり聞きなれませんが、水原秋櫻子や沢木欣一の書物にはよく出てきます。どうやら「馬酔木」独特の用語かもしれません。「詩因というのは詩をなすもと、俳句でいえば、これを詠んで見たいと思った題材のことです。この詩因の大切さというのは、絶体的(ママ)でありまして……」と秋櫻子さんが『俳句のつくり方』(実業之日本社/昭和3512月 初版発行)で述べています。けれど今朝の山はまだはっきりと「春近し」という感じはなかった。春隣ではありませんでした。椿の実が落ちてはぜ、種子をそこここにばらまいていたのは見てとれましたが、鹿が山肌の高みで樹の皮を食べているのが見えたけれど句にしたいという気にはなれませんでした。むずかしいものです。

 

ゆき過ぎし春の驟雨に人通り          立子

 

   寄る鹿の睫濡れゐて春隣            弘子

 

 こんなふうに、みごとに一句をよみたいものと願ってはいるのですが、これがなかなかなんですよね。生意気なんでしょうね。もっともっと歳時記を見、自然を見、人事を見ては感じる力を養わないといけないんでしょうね。

 

「詩というものは感動がなければ生まれない。感動がないのに、いくら言葉を寄せ集めても詩にはならない。…中略…俳句を作る場合、誰でもが心掛け、また苦しむのは詩因を見つけ出すことである。詩因すなわち感動である」こちらは欣一さんの言葉、『俳句の基本』(東京新聞出版局/平成7年4月 第1刷)で述べています。

 

                             〆

 

 

37)蠟梅はほころび、紅梅の花芽。

 

 

 

 新年明けましておめでとうございます。おだやかに年が明け、はや三日。嫁が君などすっかり姿を隠してしまっているようですが、今年も充実した句づくりに励みましょう。

 

 「俳句、そぞろ歩き」も3年目にはいり、ああこれはあの時紹介したなあ、などと書くことにつまずき始めてきました。けれどもまあ、皆様きっと忘れてくだすっているだろう、と高をくくってそぞろ歩こうと思っていますので、これからもくれぐれもよろしくお願いいたします。

 

 

 

■我が家の蠟梅がほころびはじめています。うすい黄色の花を枯葉の陰で遠慮がちにぽつり、ぽつりと開きはじめているのです。目白のつがいがやってきては、香りを楽しむかのように枝をわたります。そのついでに半分に切った蜜柑をついばんでいきます。生垣の枝をうまく選んで、後になり先になったりして笹竹に刺した蜜柑をついばみます。窓辺のそばの椅子にもたれながら目白のそぞろ歩きを眺めていると、うつらうつらとしてくるのです。

 

しらじらと障子を透す冬の日や室に人なく蠟梅の花    空穂

 

蠟梅をいけて無骨な床柱       杞陽

 

蠟梅の濃き影も香のあるごとし     弘子

 

蠟梅を月の匂ひと想ひけり       五行

 

  

 

蠟梅が香る古びた家並をぬって路地を歩けば、懐にはあたたかな冬の日差しがたゆたうような気がしてきます。小鳥の見え隠れする枝の揺れに驚いたりもして、散歩の時間がどうしても長くなりがちです。犬も黙ってついて来ます。

 

 

 

■我が家の蠟梅の横の紅梅は、まだまだかたい蕾。枝にいっぱい並んでいます。この蠟梅が咲きおわったころ、満開をむかえるはずです。

 

 

 

  寒梅の固き蕾の賑しき         としを

 

  冬梅の既に情を含みをり        虚子

 

 

 

 花が待ち遠しいのですが、しばらくは黄色い蠟梅を愉しんでおきましょう。

 

                                   〆 1.3

 

 

36)寒○○

 

 

 

 小林秀雄の対話集を読んでいたら、永井龍男との「芸について」のなかでこんな一節に出会った。(小林秀雄対話集 直感を磨くもの/新潮文庫

 

 

 

  永井 この間ある運座で「寒弾き」という季題が出ましてね。いい季題だなあと思っ

 

たんだけど、寒弾きというと、なにか三味線のほんとうのいい音が聞えそうな気がす

 

るし、そういう厳しい修業があったろうと思うしね。文章なんかでも、やはりそうい

 

う寒弾きを経てこなくちゃいけないようなところがあるんだろうと思って、心に残っ

 

たんですが。

 

「寒彈」とは、義太夫・長唄・清元・常磐津などの師匠の家で、寒の内に特に朝早くから三味線の稽古をすることなのだそうだ。三味線や文章だけでなく、俳句も同じだろうな。「厳しい修業」ってことをしないとそりゃあ「ほんとうのいい音」は聞こえて来るはずがないだろうな。師匠がよく云う「歳時記を三周する」も、ただ回数だけを云ってくれてはいないよなあ。だからまあ寒弾きをしながら三周しないとな、などと今更ながら気が付いた。

 

 ところで「寒」という字をいただいた季題は30ほどもあるが、人事にかかわるものはみんな「厳しさに耐え」て本当に身に付けるってことを謂っている。寒詣、寒垢離、寒稽古、寒復習、寒弾、寒声……。うーん、ポケットに手を入れて背中を丸めてばかりではいけない。

 

 

 

  寒彈の絲きれはねしひゞきかな       流水

 

  寒稽古病める師匠の厳しさよ        虚子

 

  寒声や目鼻そがるゝ向う風          月斗

 

 どうしたって空気の張りつめた感じがする。けれどこのような修業をせめて寒の内にだけでもしないとなあ。目鼻がそがれるまではしなくともよさそうだけれど。

 

 寒○○という季題は厳しいものが多いけれど、「寒施行」という優しいものもある。これは餌の乏しいこの季節に、狐や狸に小豆飯、豆腐のから、油揚などを田の畦や野道に捨てて施すことを云うんだそうだ。日本人って優しい。そういえば養老孟司さんが云っていたなあ、世界中のケンタッキー・フライドチキンのなかで、鶏供養するのは日本だけだって。そういうことだよなあ。おっと、寒○○からフライドチキンのことになってしまった。そぞろ歩きしすぎたようだ。

 

 

 

  ひたむきに鞍馬をさして寒詣         雨圃子

                                       

 

35)東山、時雨けり

 

 

 

 冬立つ前の日の寒い朝、京都南禅寺界隈を吟行した。阪急河原町からのバスを「神宮前」でおり、平安神宮大鳥居そばのコンビニでお結びを二つと栗のはいった三笠饅頭を買って、疏水に沿いながら六勝寺桜並木を南禅寺へと歩いた。京はもう冬なんだなあなどと感じながら動物園手前の信号を待っているころには、ぽつりぽつりと雨が降ってきた。京都名物の時雨が降ってきたのだ。今日は一日中晴れるということだったから傘は持ってこなかったのだけれど、苦になるほどの降りではない。むしろ句になるなあ、と嬉しかった。

 

 

 

  京に寝よ一夜ばかりは時雨せん    虚子

 

 これは吉田虚桐庵をお持ちだったころの虚子の句だ。我庵は大文字山の落葉かなという句を残している。この時雨の句には「瓢亭を吉田の庵にとどめて」という言葉書があるとおり、京都はよく時雨するところだよ、という句にちがいない。ちなみに言葉書の「瓢亭」は虚子と同郷の俳人五百木瓢亭のことで、無鄰庵のむかいの日本料亭のことではない。

 

 「時雨」という季題、傍題が多いし例句もとても多い。短歌にも多く詠まれてきた。日本人がこよなく好きな言葉、情緒のようだ。けれどこの言葉なかなか本意の把握が難しい。もっとも分かりやすかった解説は『雨のことば辞典』(講談社学術文庫、倉嶋厚・原田稔編)かもしれない。

 

……冬型気圧配置の日に、テレビの気象衛星の雲画像で、日本海や黄海・東シナ海に白い「雲の筋」がたくさん映っているが、それは、これらの雲が風に流されて無数の行列になったものである。……その「雲の行列」の一つ一つの雲が通過するたびに、1~2時間の周期で降ったりやんだりを繰り返す。これが時雨である。……先刻の雨がうそのように青空から日が射して、庭の菊の花や柿の実が明るく輝く。そんなことの繰り返しが時雨…

 

 だそうである。語源は「しばしば暮れる」「過ぐる」だ、などとも書いてある。

 

豊岡の空しぐるるや幾たびも       弘子

 

ふる里の時雨華やぐ一日かな      同

 

 時雨のあとに出る虹を時雨虹というが、瞬時に消えてしまう虹である。

 

   その色を湖に頒ちし時雨虹       弘子

 

 ほんの一刻、湖の水面に七色の影が映ったのであろう、儚い美しさである。

 

 

 

 南禅寺三門をぬけて法堂への玉砂利の道で、老いた園丁が一人時雨のなか黙々と落葉を拾っていた。時雨で一句いただくことができた。〈園丁の黙の深さや初時雨〉

 

                                     〆

 

  

 

 

34)晩秋に、よせて

 

 

 

 『珠玉』という開高健の遺作を読んでいてこんな言葉に出会った。

 

 

 

  小説家は経験から作品のネタをひろうのだという意識を持ってはいけないが捨ててもいけないと知っている。作品はだまっていると寄ってくるが呼べば逃げるものである。経験という果実はつぶして、砕いて、形を失わせてから酒にしなければならないが……

 

 

 

 三つの物語からなる『珠玉』の、第二話「玩物喪志」のなかの一節である。この一節の「作品はだまっていると……」を「句はだまっていると……」と置き換えて読んでしまう今の自分だが、まさにそのとおりだなと感じた。

 

兼題「空也忌、朴落葉」で難渋していて、空也忌は諦めてせめて朴落葉でだけでも五句出そうと決め、箕面の山に朴の木を探しにいってみた。けれどもこれがなかなかで、けっきょく成果は得られなかったのだ。いつだったか大山崎山荘の吟行のおり、山荘への坂道の途中に朴の落葉があり、どなたかが出句されていたなあ! 飛騨高山に祭りをみに行った四十年ほど前に、たしか朴葉味噌で地酒をいただいたなあ! などとは思い出したりもしたのだが、句にはならない。数少ない朴の葉の経験なのに、まだまだ「寝かせ」ておかねばならない。句会の前々日のことだ。一所懸命に句を「呼んだ」けれど空回りするばかりだった。ところがである、あきらめて寝てしまった朝方に朴三句、空也二句が「寄ってきた」のだ。とりあえず枕元のランプを点けてメモしておいた。寝床での句はどうしようもない句がほとんどだ、と云われているけれど、翌日の白昼に推敲すれば良いと、また眠りに落ちた。翌日つまり句会の前日に、それぞれ推敲して「ええいっ、ままよ! 」などという気持ちはすべて払拭できた五句が仕上がった。(もちろん先人方がみると、凡だな。となるかもしれませんが

 

句会での結果は、空也忌の二句を主宰が並選で、朴落葉の三句は互選で5人が採ってくださった。「だまっていると寄って」きたと云えるかも知れない。だまって寝ていると寄ってきた、と云えるのかも知れない。

 

開高健の単行本『珠玉』は、この句会のかえりみち梅田かっぱ横丁のワゴンセールで見つけたものだ。19902月第一刷と、奥付にある。開高ファンだった僕は、この作品の載った「文学界」新年特別号をあわてて買いに走ったことを思い出した。開高が前年の12月に亡くなって、直後の掲載雑誌だったからだ。すぐに単行本も出た。それも買っていた。けれど単行本のほうは、その後、高校時代からの親友で外地にすむH君にプレゼントした。開高健のことを教えてくれたのが彼だった。そのHは10年前、開高健と同じ59歳で逝った。

 

空也忌の父母の位牌の黒と赤             

 

 〆

 

33)嬉しくて懐かしき、秋祭。

 

 部落に秋祭の季節がやってきた。豊穣を感謝する祭だ。 

路地ごとの電柱では、宮の名を染め抜いた幟が赤くゆれている。氏子の名前も幟とともにゆれている。近隣の子らが何か月も前から練習を重ねてきた太鼓の音も、ちゃんと祭囃になっている。楠の大きな樹がすみきった青空のなかで、静かに微笑んでいるようだ。焼き鳥の煙、ソバを焼く煙をこの樹が空高く舞いあげる。音と匂いにさそわれて、老いも若きも善男善女が石の鳥居をくぐってはいってゆく。八幡様は大賑わいだ! 

     

    老人と子供と多し秋祭         虚子

      年よりが四五人酔へり秋祭      普羅

      秋祭昔めく色並べ売る         弘子

      挨拶にしわぶき一つ在祭        喜代子 

 

  古くから住む人々の多いこのあたりもやっぱり独居の老人、夫婦連れの老人が多い。静かなんだが、それはまた活気にもとるとも云える。どの路地を歩いても金木犀の香があふれているこのあたり、焼き鳥の匂いいが勝つなんてことは年に一度、秋祭の二日間だけだ。孫をつれて祭を味わいに帰ってきた娘は、鳥居の下で幼馴染と立ち話。三歳のわが孫は、スーパーボールをすくって大喜びだ。金魚すくいの女の子らもいる。祭になると子供がふえる。人があふれて賑わいがもどる。 

 

  つたへ古る獅子舞唄や秋祭       秋櫻子

    賑ひも一筋町や秋祭           莫生

  外股におかめが舞ふよ在祭       清子

  バス停の位置をずらして秋祭       和子

 

 われらが八幡様の秋祭には子供神輿が町内を練る。揃いの法被を身に着けた小学生たちが、御祝儀の白い袋をいっぱい結わえた御神輿をかついで通りをゆき、氏子の家々に幸せを振りまいてゆく。そういえば三十年ほども前、三人のわが子らも法被鉢巻をして旧西国街道を練りあるいたものだ。

 

 かくいう自分も小学生のころには、阪急岡町駅のそばの原田神社の秋祭に山車をひいたものだ。あちこち引き歩いては袋いっぱいのお菓子をもらった。嬉しかったなあ。道端でおおぜいの大人たちが歓声をあげて応援してくれるのが、なんだか主人公になったみたいで、嬉しかった。

 

  神官の立つて字を書く在祭         弘美

 

 協賛者の名前が墨痕あざやかに鳥居のわきに張り出されるのも、力強く賑々しくて豊かな秋の感じがする。秋がたけなわだ。                   

 

                                     〆

 

(32) 秋の花

 青空がもどりそよ風が吹く気持ちのいい朝、秋をさがしに山を歩くことにした。
一の橋をわたって木下道を一人ゆけば、知らずしらずに両手をポケットにいれている。シャツの第一ボタンを止めている。なんていい感じの「寒さ」だろうか、と思った。水嵩をました渓流も活気に満ちて、瀬音が高い。さまざまな小鳥の鳴く声も聞えてくる。いつの間にか山はすっかり秋のよそおいだ。
けれど紅葉はまだまだ。ほんのりと赤くなっている枝もあるけれど、ここ箕面山の紅葉は1か月半ばかり先、11月の下旬過ぎからだ。紅葉より秋草、足もとのあたりに目を向けて草の花を探すことにしよう。野路菊が咲いている。水引草の花が目立たつことなく咲いている。高野箒も開きはじめている。秋の草花は小ぶりで色がほのか、控えめな感じがするのは僕だけだろうか?

簪の耳掻ほどの草の花           虚子
淋しきがゆゑにまた色草といふ       風生
秋草もふるさと人も情あり          弘子
 そういえば水引草の赤い花の色も白いのも、ただの赤ただの白ではない。深みとでもいうか悲しみとでもいうか、色に影がある。金木犀のあのオレンジ色もそうだ、絵の具では表現できなさそうな微妙な色をしている。なによりみんな小さい花だ。なんともいえず情ありという感じがある。

 

山にある秋は目にはいるものだけではない。耳にとどく秋もあり、香りの秋もある。堰を落ちる渓の流れの音が遠くなったり近くなったりする道には、鳥の鳴き声がちちちっと聞こえたり、ぎゃーっと聞こえてきたり賑やかだ。

 

ほのかな木犀の香に包まれたかと思った矢先、落ちて潰れた銀杏の臭いがあふれていたりする。香りも絢爛だ。

 

 

 

 野路の秋我が後ろより人や来る      蕪村

 

「野路に落つ銀杏の実の潰れかな」などと句帳に控えて山を下りれば、麓の駅のターミナルに車をとめて翁と媼が二人、小さな鉢植えがいっぱいの台車を歩道にあげようとしている。怪しまれるといやだから「お手伝いしましょうか? 」などとは言わなかったが、大変そうだった。けれども何やらうれしそうな感じもある。そういえば家の暦に「野草」と鉛筆の書き込みがあって、明日明後日と線引きがしてあった。ああそうか、我が家の老婦人が楽しみにしている山野草展なんだ。出品のための搬入だな、と気がついた。台車には小さな秋が整然とならべられていた。            

 

 〆

 

 

31) ジンジャーの……。

 

 

 

 中学のバレーボール部の恩師を囲んで、敬老の日の小宴があった夜に少々いい気分で家に戻れば、ジンジャーの白い花が活けられていた。鼻の穴が最大限に開いた気がしてしまうほど、いわゆる芳香が満ちていた。思わずその鼻の穴を白い大きな花びらに寄せると、ほろ酔いはいっぺんに覚めた。なんてまあいい匂いなんだろうか ! などと口ずさめば、ほんとやねえ、南国の香りやねえ! などと後ろの老婦人が応える。

 

 原産地はインド、マレーあたりのこの多年生の植物は、わが家の狭庭の北側のはしっこ、隣家との境のすぐそばで茂っている。雨をたっぷりと吸って生き生きとその大きな葉を揺らめかせている。ジンジャーエールにジンを垂らせた飲み物のほうが僕にはお似合いなのだが、この匂いは別格だ。植わっているものの花の香はなかなか届いてこないものだから、くだんの老婦人は毎シーズンこれを伐って透明ガラスの花活に挿す。

 

秋もそろそろ酣ということだろうか。

 

ジンジャの香夢覚めて妻在らざりき       石田波郷

 

 この句とっても淋しさがあるなあ。けれど豪華な寂しさだ。ふと目覚めたらジンジャーの花があり、香りが満ちているんだから。

 

 

ジンジャーの花を季題として表題に挙げているのは『角川 俳句大歳時記』だけだけれど、とても素敵な隠れた季題だと思う。ほとんど例句が見当たらないのでこれを読んでくださった皆さん、どうぞ名句をたくさんお詠みください。いつかいろいろの歳時記に採り上げられるかも知れませんよ。

 

ジンジャーの花を活けたり老婦人       

 

 人生の秋にさしかかっている落着きを感じませんか、この句。

 

 

 

 さて、バレーボール部の監督をしていた恩師は81歳になっておられて、「僕は80歳から水彩画をはじめたんだ。君一緒に個展をやろうよ」と強烈なアタックを打ってきた。けれど僕は9人制バレーボールの名レシーバーだったものだから、かるく両手で受けて相手コートに還した。「先生、個展というのは一人でするものですよ。それに僕は展示するものがないですよ」「俳句を書くんだよ、君」などという他愛もないやり取りが進んで、懐かしの部友たちと台風前の一夕、いい時間を過ごしたのでした。

 

 

 

                                     〆

 

 

(30杞陽の「虚子自選句集」

 

 

 

 高浜虚子の俳句を読み学ぶ気持ちになった。

 

 

 

『私は、いささかの留保もなしに、虚子が<怪物>であることを進んで肯定せず

 

にはいられなかったし、世の<前衛>俳人たちが虚心坦懐に虚子に学ぼうとし

 

たなら、得る所きわめて多かっただろうに、と思わずにはいられなかった』

 

 

 

 と大岡信の書いている(岩波文庫『虚子五句集 下』の解説)のが身体のどこかに残っていたのだろうか。そういうときに『虚子自選句集』という古い新潮文庫を入手したことが、大きいはずみとなって、しっかりと読む気になった。

 

昭和33年発行の1冊で、この句集は虚子自選の岩波版『虚子句集』の5千余句の中から、京極杞陽がさらに千七百余句抜き出したものだそうだ。杞陽の感性、美意識が選んだ虚子作品集ということなのだ。

 

杞陽は巻末に寄せた「虚子先生の句」という文章のなかで、こんなことを言っている。

 

   私は不図こんなことを考へた。虚子先生の句のあとに、「これは諸国一見の僧にて

 

候」と呟いてみるのである。

 

「咲き満ちてこぼるゝ花もなかりけり 、 これは諸国一見の僧にて候」

 

「桐一葉日當りながら落ちにけり 、 これは諸国一見の僧にて候」

 

「田植女の赤きたすきに一寸惚れた  、 これは諸国一見の僧にて候」

 

他の人の句では中々かううまくは行かないのである。ここに何かが在ると思ふのである。

 

先生のどこか執著のない人柄に依ると思はれるのである。

 

……唯々諸国一見の僧である。

 

 

 

この文章は、もともと杞陽が昭和21年から昭和56年まで主宰していた俳誌「木兎」に寄せたものだが、『虚子自選句集』をまとめるに際して再録したものである。

 

 

 

 さて「諸国一見の僧にて候」の句とはこういう句ですよと、杞陽があげたそのほかの句を見てみよう。

 

 

 

  やり羽子や油のやうな京言葉 / 椀ほどの竹生島見え秋日和 / 君と我うそに

 

  ほればや秋の暮 / 我宿は巴里外れの春の月 / 食ひかけの林檎をハンドバッ

 

  グに入れ     

 

かういう旅僧といふものの心を理想化すると虚子先生のホ句の心が割り出せてく

 

るような気がするのである。

 

 

 

 と杞陽は文章を結んでいる。

 

 

 

 この秋からはこの僕も、旅の僧とまではゆかないまでも、旅人のようにいつも好奇心を旺盛にして花鳥を眺め人事を眺めては、句をつくっていこうと思う。

 

 

 

                                     〆

 

 

 

 

29)「うへ」か、「へ」か

 

 

 

 地蔵盆の今日、朝まだ涼しいうちに滝までをそぞろ歩いた。台風の影響によって滝壺の前のベンチには風がおだやかに流れている。猿もときどき滝のオゾンを胸いっぱい吸いたくなるのだろう、木下闇の奥の木の上で瞑目している。リオも甲子園も終わってそろそろ秋の気配である。

 

 

 

 滝の前の句碑『瀧の上に水現れて落ちにけり』を久しぶりにしっとりと眺め、説明板の写真を撮った。昭和32年(1957)に建てられたものだから、もう半世紀にもわたって滝を見あげ、滝を見あげる人々を見おろしてきた自然石の碑は、苔むしてしまって自然に戻ろうとしているかのようだ。昭和4年に後藤夜半が詠んだ瀧の句のうちの一つで、ほかに『瀧水の遲るるごとく落つるあり』『ことごとく瀧に向へる床几かな』がある。毎日のようにこの滝を眺めている者としては、三句ともとてもすんなり心にはいってくる。

 

わずか30メートルほどの落差のこの滝は、箕面駅から舗装された道を3キロたらず、下駄ばきでのぼれるような親しみやすさがある。滝壺の前にならぶ『床几』では、ひと休みする人々が滝を見あげたり、シャッターを押したりしている。床几から滝壺までは20メートルもないだろうか、風に運ばれるしぶきが心地よい。

 

 

 

 『瀧の上に…』をどう読むか? が本題だった。恥ずかしながら僕は当初ずーっと「たきのえ」と読んでいた。けれどそれは間違いだった。後藤比奈夫の『後藤夜半小論』にこう書かれているのだ。

 

…「たきのうえに」と読む。夜半の代表句のように云われているこの滝の句は、そういった夜半の転機注。昭和4年に夜半は、艶麗な句づくりから単一化、トリビアリズムへと大転換していった=比奈夫の中でうまれた。 =中略= 昭和五年毎日新聞主催の日本名勝俳句で、箕面滝の一席に入選、のち、日本風景院賞二十句の中に入った。この句は、句碑となって、箕面滝の滝壺の、向かって左側に建っている。  

 

=略=句碑開き時の挨拶の中で、父は「この滝の句は、虚子先生の御推輓がなければ、世に出ることはなかったと思う」と言って絶句した。実にその通りであったろうと思われる句である。

 

 

 

 「たきのうえに」でいったん切れており、そのことで水が一度とまって溜まる。そしてやおら落下する。その様子がありありと浮かんでくるのだ、という。箕面に来られたら是非この句碑をご覧になっていただきたい。

 

 

28)祇園祭の、ヒート!

 

 

 

 

 

  祇園会の雰囲気運び来たる人     弘子

 

 後祭(あとまつり)の京へ、暑さを覚悟して行ってきました。朝9時半に八坂神社の側道から動き出す花傘巡行を、鳥居のそばの茂みのなかからずーっと眺めておりました。子供が主人公の山車や神輿がくり出していきます。花笠をかむった白塗りの御嬢さん、馬にまたがった少年武者、鷺の冠りものをつけた女の子。次からつぎといくらでも出てきてくれました。八坂神社前の三叉路はし

 

ばらく車の進入禁止です。

 

巡行のつらなりは、四条通をねり歩き鴨川を超えて寺町通に向かい、右にまがって北上します。これらの通りの左右にはカメラを構えた、いろいろの国の祭り好きがぎっしりと立っています。見られている子らも、観ようとする人々もヒートしています。およそ十万人の善男善女が、すごーく暑いんだけれど、いっとき暑さを忘れているのです。

 

 

 

  月鉾や兒の額の薄化粧       曾良

 

どよめきもこの人垣も京の夏    佳乃

 

 

後祭山鉾巡行も、おなじころ烏丸通御池から出発します。京都市役所の前の四辻で、直角に右へ方向転換する「辻回し」もあり、勇壮で男っぽい巡行です。河原町通を南下して四条通へと突き進みます。花傘巡行とぶつかりあわないようにとの、祇園祭山鉾連合会などの人たちのご苦心です。こちらは152年ぶりに復元された竜の頭をつけてしんがりをゆく大船鉾が評判です。

 

 

 

  鉾にのる人のきほいも都かな     其角

 

  東山回して鉾を回しけり        比奈夫

 

囃子方こぼれさうにも鉾進む     弘子

 

京都にとなりの大阪に住むしあわせ、傍観するだけでいい幸福をこの夏も満喫させていただきました。せめてお礼に、一杯のんで鱧でも食べてお金を落とさなければと、いつもの居酒屋に出向きました。けれど、「満員」と書かれた札がぶらさげられていました。そりゃそうか、残念!

 

 

 

                                     〆

 

 

(27) 懐かしい、虫送

 

 

 

 七月の二日三日、円虹の吟行会です。一泊で、香川県小豆島に行ってきました。このことは「つぶやき日記」にくわしく紹介されていますので、どういう流れでこの「農事」が繰り広げられるかは、よーくおわかりいただけます。

 

 三百五十年もの昔から、田植えのすんだ青田を守るために稲の害虫を追いやる行事、願いとして執り行われてきたそうです。半夏生の日に、幼い子たちが青竹の先にぼろ布を結わいつけ炎を揺らめかせて歩きます。今年は閏年だから一日遅くなって七月二日。自分たちの村落の田の畔をゆっくりと歩きます。竹の重さ火の怖さに引っ込むおさな子には、お父さんやお母さんが手を差し伸べて一時間ほども歩いていきます。お隣の村との境目の川辺まで。

 

 このことを今でも続けている村落の絆がなんともいえず懐かしいことです。交番を空っぽにしてお巡りさんも総出で子らを守っています。橋の畔にはおばあさんたちが団扇をあおいで夕涼みしています。遠くの山の上からは大きな観音様が、静かに青田を見下ろし、子供たちに「ありがとう、気を付けてね」とでもいっているかのように、沈みゆく夕日を背に白い御像を輝かせています。夢の里に迷い込んだとしか思えないような、現実の時間と感じられないような、美しく気高い行事です。

 

 

 

闇ふんで草の匂へる虫送り           弘子

 

観音の慈悲の風来る虫送           佳乃 

 お隣との境になる小川につくころには、島はすっかり暗闇になっています。河原に集められた火手(ほた)が、炎を大きく高く闇にあげます。やがてぱーんぱんと爆ぜて、そして火がおとろえ、あたりは静かになってもとの姿にもどってゆくのです。夕涼みのおばあさん達もそれぞれの家にもどってゆくのです。

 

 

 

  まだくれぬ夕日に向かふ虫送          まい

 

  風の暮れ峡暮れ果つる虫送          美智子

 

  火の数が島の子の数虫送           啓子

 

 

 

 岡山からフェリーで渡った小豆島だったが、戻りは高松へ行った。フェリーの中のテレビの画像では、バングラデシュの人質事件が報道されていた。瞬時に現実世界に戻されてゆく。あの島の松明の火の点々と続く青田の静けさは夢であったのかもしれない。

 

 

 

 やっとパソコンが蘇生したしました。5か月ぶりに「俳句、そぞろ歩き」

を投稿いたしました。皆様これからもどうぞよろしくお願いいたします。   

 

26)裘葛を、易う

 

 

 

「きゅうかつを、かう」と読むそうです。一年の月日が経過する、という意味らしい。

 

裘はかわごろも、冬に着る。葛は夏に着る物。それをかえるので一年の月日が経つってことだそうです。

 

たけるの「俳句、そぞろ歩き」の最初の投稿は、昨年の二月九日でした。ちょうど一年前。月に2回の投稿を自分に課してなんとかそれを保ちましたが、中味の質は決して高く保ったとは云えそうもないですね。けれど句会場や、吟行会場でときどき「そぞろ歩き、楽しみに見てるよ 」って云われたりすると嬉しくて、頑張ろうよなんて自分に云って聞かせたりしています。読んでるよじゃなくて、見てるよっていうあたりがちょっと気になるときもありますが………。

 

 

二年目の最初にあたってのそぞろ歩きは、まだマフラーをして手袋をしないとちょっとばかり辛いのですがカメラをぶら提げて襟立ててやってみようと思います。我が家の紅梅ももうすぐ開花しそうなふくらみ具合だし、通りのお向かいの紅梅は三部咲きだし、やっぱり梅の花を狩りに行こうじゃないか。

 

 

 

ゝに残る寒さやうめの花       蕪村

 

 

 

まだやはり寒さは時として襟首あたりから襲う。けれど植物には確かな暦があって、いっときの寒暖にまどわされたりすることはない。蠟梅が朽ちれば白梅紅梅が役目をになう。

 

 

 

紅梅の莟は固し(ものい)はず         虚子

 

母好み紅梅昏れて忌日暮る       林火

 

 

 

僕のお袋も紅梅が好きだった。お正月用の盆栽の梅を庭に植えかえて水をやっていた。それが今では幹の太い立派な梅の木となって季節を告げている。先だって一輪咲いたその梅の一枝を妹がくれた。

 

 

 

  人ごゑの集まって来る濃紅梅     弘子

 

 

 

我が家の紅梅は先住の人達が育てていた梅だ。三十五年ほど前に移り住んだ時から濃い紅色の花を咲かせてくれていた。ずいぶん剪っては樹形を整えたつもりだが、さてどうだろう。いま花芽が並んではいるが。                    〆

 

 

25)はじめる

 

 

 

平成二十八年の円虹の初吟行は、京都三十三間堂の弓始と、初春の京の町の嘱目でした。

 

弓始は朝九時からの開始。八時半には三十三間堂に着いたのですが、境内は押すな押すなの人人人です。ずーっと並んでいる人たちもいれば、ゆっくりと歩き進む方々もいます。僕は並ぶより動けと、歩き組についていきました。しばらく歩くと弓と矢を抱えた羽織袴や振袖袴の若者たちが大勢いるではないですか。腰にゼッケンを結わえています。僕の進む選択は的を射たのです。そうなんです、並んでいた人たちは「楊枝のお加持大法要」をめざす人たちだったのです。歩いてゆかないと弓始の会場には行かないのです。

僕はテントを張った弓始の観覧席の最後尾に、爪先立ってかろうじて射手と大的を見ることができました。すぐに十二人の成人男子による射初がはじまりましたが、的に向かって左から一番目と二番目の若者は、紋付の片肌を脱いで弦を引き絞っています。白い左肩がとても寒そうです。いっぱいに引き絞ったその直後、矢の先をひょいっと少し上向きに決めます。まるで未来へ向けて照準を合わせているかのようでした。弓道初段以上の新成人が各地から三十三間堂に集まって、射手は二千人になるそうです。それぞれ二本の矢を射ることができます。甲矢乙矢(はやおとや)というんだそうです。兄矢弟矢とも書くようです。

 

 

 

弓絞り大気を絞り弓始            山田弘子

 

少年の耳朶染まりゆく弓始          佐藤  翠

 

 

 

一の矢で大的に当てるのはなかなか難しいのでしょう、たいていが手前に着地します。観覧者の眼前を「矢のように飛ぶ」矢を観ているのはなんとも云えぬ快感がありました。

 

映画『マトリックス』の中にいて拳銃の弾をよける主人公になった感じとでもいいましょうか、気持ちいい。寒気を切り裂く音がしたような気もします。 

 それにしてもこの寒さのなか、よくぞまあこんなにも多くの「若武者」が集まるもんだ、底冷えする京の寺に。袴を着けて、白襷をして。髷を結えばまったくの武士じゃないか? なんてことを思って胸が熱くなりました。日本の将来は大丈夫だ! などと、テンションの高まる弓始でした。 

 

 

 

真つ新な的に朝日や弓始(木村恭子)  若人の視線はるけき弓始(寺杣啓子)

 

甲矢乙矢的をはづして春隣(小林志乃) 大的を得ざる一の矢弓始(藤本たける)

 

 

 

                                                  

 

 

24) 申、来たる

 

 

 

正月三日、瀧を見上げに箕面の山を歩いてきました。多くの善男善女、大人も子供も白い息を吐きながら歩いて、あるいは走っていました。つつがない一年がはじまったなあという思いがいたしました。箕面の瀧は凍ることなく少し右斜めに、いつものように落下していました。優しい水が、三十メートルの高みからゆれながら落ちてくれていました。

 

 

 

  優しさに触れたることに初泣きす     山田弘子

 

 

 

落涙はしなかったけれど、今年もいいことがあるぞって予感に満たされました。

 

今年はめずらしく瀧壺の前に猿が一頭おりてきていました。それも大きなやつです。頼山陽の詩碑の脇の大きな冬木の股に坐って、まるで栂尾の明恵上人のように瞑想していました。じっとしたまま「動かザル」です。ああなるほど今年の干支を知っている猿が寒さをこらえてサービスしてくれてるんだ! などと言い合って人々はカメラを構えていました。もちろん僕も。それにしても寒そうだった。小蓑を投げかけてあげたかったなあ。

 

 

 

誰やらが姿ににたりけさの春       松尾芭蕉

 

年立や雨落ちの石凹む迄        小林一茶

 

   ほうらいの山まつりせむ老の春      与謝蕪村

 

   餅もすき酒もすきなりけさの春       高浜虚子

 

 

 

今年は申年。顔をまっ赤にするまで感じて考えて、そして推敲をしっかりとして名句は出来ないとしても、駄句をあまりつくらないようになれますようにとこっそりお祈りをして瀧を背にしたのでした。

 

どうぞみなさま本年もご指導と叱咤と激励をよろしくお願いいたします。

 

                                                 〆

 

 

 

 

23」年、暮るる

 

 

 

歳晩の京の町はあでやかです。市場は色にあふれ、棒鱈が捩じれながら全身をさらしています。買い物客もひやかしも、人はみな牛歩のように進みます。魅惑の食材が妍をきそってキラめいています。言語も多彩、衣服も表情も多種多様です。

 

市場を出てしばし東にすすむと四条大橋。橋の下にはゆりかもめ。橋をわたれば芝居小屋。小屋には当代人気の役者の看板。それを見上げる舞妓さん、お嬢さん。四条通りは年が暮れないんじゃないかしら? と勘違いしそうです。

あでやかな四条通りをあとに平安神宮、疏水、南禅寺のあたりに足を向けます。ここまで来ると冬の澄んだ大空が視野いっぱいに広がり、朱色の大鳥居が青空に切り込む

 

ようにしゃきっと立っています。疏水を見下ろす橋に立って東山を望めば、布団を被って横になっているような人型の稜線がなだらかに左右にひろがります。疏水記念館そばの噴水も冬日にきらめいて、大輪の白菊のようでとてもきれいです。右に曲がりつつ歩めばやがて南禅寺参道の入り口。すぐそこに南禅寺がひろがります。

 

 

 

何か追ひ何か捜して年暮るる     弘子

 

 

 

俳句を追いかけて、阪急電車の烏丸から南禅寺までやってきました。円虹の吟行会です。南禅寺の三門を見上げたあと水路閣の煉瓦にふれてみたり、万両の実の赤が光に照っているのを眺めてみたりしては、句がおりてくるのを待ちます。

 

 

 

古町の古寺の古墓の冬        弘子

 

叡山を網掛けにして大冬木      弘子

 

さまざまに句の想を得て句帳に走り書きしたあとには、京都動物園にも入ってみる。吟行でもなければ、大人が一人動物園の切符を買いにくい。600円が高いのか、そうでもないのかわからないけれど、冬の動物たちの奮闘ぶりを見てみよう。

 

 

 

象の鼻濁る冬日に伸びてくる       佳乃

 

   冬芽食ぶきりんへ京の日のまだら     志乃

 

   ライオンも尾を振るものよ冬の園      たける

 

 

 

歳晩の京の町を吟行するって、なかなか味わい深いなあ。市場の賑わいがあり、歌舞伎の幟がはためき、古刹の静寂がある。飽きれば象が鼻を振る。疏水に目をやれば噴水が白い。秋もよかったけれど、冬もまた吟行はいいなあ。帰りにちょいと熱燗でも鰊蕎麦でもいただいて。年を納めてみたりして……。               〆

 

22)京は南座、幕あがる

 

南座はいま年末吉例の顔見世興行で、四条川端は大賑わい。和服の麗人方であふれています。なにしろ「顔見世を見るため稼ぎ溜めしとか  虚子」と詠まれるほどにも京の人々には、待ちに待った晴れの芝居正月なのですから。

花街の芸妓さん舞妓さんたちにとって、これをみないのは恥とされた時代もあったようです。「虚日なくこれを観るを、その芸子の名誉とすることなり」と『守貞漫稿』には書かれています。おそらく師走の京の夜は、顔見世の役者の話でもちきりだったのでしょう。「貌見世や夜着をはなるる妹が許  蕪村」などと詠むということは、男にとっても何事にもかえがたい楽しみだったようですからねえ。

 

今年の顔見世は、中村鴈次郎の襲名披露もあり、そして今をときめく愛之助の出演もあって大評判。鴨川のゆりかもめもなんとなく落ち着きがありません。

 

顔見世のまねき見て立つ手をつなぎ    風生

京女浪速男や顔見世に           野風呂

顔見世の楽屋入りまで清水に        吉右衛門

顔見世へむかし女になりにゆく        弘子 

 

きのう楽屋口で30分も待っていた人がこんな句を詠んでいます。「冬帽の藤十郎の楽屋入り」。藤十郎って思ってたより大きいない人やったわあ。なんてことを嬉しそうにはなしながら。はなやかな師走の京の景色があちこちで見えています。

僕はといえば、今さらながら「南座ってなんで南なんだ? 何に対する南だ? 」という思いにとらわれて、すこし調べてみた。江戸時代、宝暦明和(1750年~1770年ごろ)のころには四条をはさんで北側の「東の芝居」「西の芝居」、それに「南側の芝居」と三つの芝居小屋があった。やがて文化文政期(1800年~1830年ごろ)になると北側の西の芝居がなくなる。こうして四条北側の「東の芝居」と、「南側の芝居」の二軒となってしまった。明治にはいるとそれぞれ北座、南座とよばれるようになっていた。けれども明治26年になって北座は廃止となり南座だけが残ることになったのだそうだ。もともとは北座もあったんだ。四条通りをはさんで北と南だったんですね。そりゃそうか。

 

よろしいですねえ。みちゆきの上にショールをかけたご婦人、草履白足袋ハンドバッグ。時代が少し逆戻りしたような「むかし女」の美しさ。四条のあたりのざわめきは艶があります。四条大橋の下には、ゆりかもめがゆたゆたゆたゆた。マガモ白鷺みな浮かれているように見えてきます。

 

  顔見世に来て不景気の話いや   美穂女

 

まったくもってそんな感じの橋のあちこちです、京はいま。 


21) 鷹日和

 

 1124日の宮古島の朝は澄みわたり、光が輝いていました。冬麗というにはほど遠い「暑さ」です。宮古島市内で一番高いところにあるカママ嶺公園には、風が強く吹いていました。この場所に佳乃主宰の初めての句碑が建立され、披露式がとりおこなわれました。先に弘子先生の句碑があって、そのすぐそばに場所ゆるされて建っています。

 

 蒼海へ鷹を放ちし神の島     山田弘子

   神々の高さに鷹の光りをり     山田佳乃

 

母と子の鷹の御句、神をたたえる二句がおりからの強い島風のなかに並ぶことになりました。母娘二代、16年間の宮古島での児童らへの俳句指導のご努力がみのり顕彰されたのでした。

宮古島市長をはじめ多くの人々が御列席くださり、句碑披きはおごそかにそして華やかにおこなわれたのでした。紅白の紐を解いて除幕がすむと、入魂の御経が静かに読みあげられました。導師のたたく鐘の音が、松ヶ枝のざわめきとともに風にのって宮古の空に流れていきます。建立実行委員会会長伊志嶺・元市長の挨拶、現市長、教育長の祝辞などが述べられ主宰の謝辞と続いた儀式は閉会となり、引き続いて祝いの小宴がひらかれました。島唄がうたわれ、ことほぎの島の踊りが舞われ明るいけれど引き締まった宴となったのです。風にとばされないように紙テープで張り付けられたコップに飲み物を注ぎ乾杯をいたしました。南の島らしいとてもいい句碑披きと言えるのではないでしょうか。

 

  この風をこの雲を鷹日和とぞ    弘子

  鷹吐くは吐くは光の朝雲よ     

  鷹柱岬に虹を呼びにけり

 

  漂泊の心鷹待つ心かな      佳乃

  鷹一つ珊瑚の島を洗ふ波

  胸底にいつも島風抱きて秋

 

末席にすわれたことの俳句の御縁に感謝することしきりの宮古島だったのです。

 

16年前に円虹の山田弘子主宰が、宮古島にいらっしゃるようになったのは、今回の句碑披きで司会をしてくださった、池田事務局長さんからおこったことでした。島の子供たちに「俳句のしかるべき指導者をむかえたい! 」と熱望されていたころに、テレビで弘子先生をご覧になったそうです。そして、この方だ、この方しかいない、とひらめいたらしい。で、約束をとらずにいきなり宮古島から芦屋市の円虹発行所まで飛んだそうです。発行所に弘子先生がたまたまいらっしゃったことも幸いしました。先生はもちろん池田さんと子供たちの熱意にすぐ応じられた、ということです。劇的な物語があって今もまだ、そしてこれからもずーっと長く宮古島の子供たちと円虹の俳縁は続いていくのでしょうね。

                                   

差羽の写真は、久貝勝盛・宮古野鳥の会顧問様のものを引用させていただきました

                                


20) Free  Care…… ?

 

箕面のお山の紅葉は、さてどんな具合だろか? とカメラを提げて歩いてきた。けれど1111日の朝、箕面の紅葉はまだ2分の色づき、お勧めするまでにはいたっていません。もう少し我慢してくださいね。

 

山をのんびり歩いていると、急に今日の表題のような英文が頭のなかでぴょこぴょこしてしまった。

Free  Care  Cars to  Become  mes Note.

これ、 フリー ケア カーズ トゥ ビカム ミーズ ノウト って発音です。僕が中学生のとき、英語の先生が遊びで黒板に書いて教えてくれました。尾崎先生。「芭蕉の有名な俳句を英語では、このように書くのです」とかって、とぼけちゃって。それ以来このフレーズが今でもときどき頭のなかで飛び跳ねます。授業で習ったことはすっかりダメなのに。けれどこれ芭蕉さんもきっと莞爾として、大目にみてくれそうでしょ。それとも「私にもそういう狙いがあったんだ。国際的に広まるようにね」とおっしゃるかもしれません。

 

  古池や蛙とびこむ水の音     芭蕉

 

尾崎先生も俳句をなさっていたんだろうか。伝統俳句? 現代俳句? いや自由律俳句じゃないか、「フリー ケア」だもの。尾崎って名前なんだから。

 

二十回目の記念すべき「俳句、そぞろ歩き」にこれではいけませんね。本題にはいります。「美男葛」あるいは「さね葛」です。今お山の滝安寺前公園の横、渓流のそばで美男葛の実が美しい色をして、こっそりぶら下がっています。花がきれいなんだけれどこの葛は実もまたみごとなんです。葉にかくれるようにして、緑の粒を真っ赤に変えていきます。花が散って二か月はかかったろうか。いま、それはそれは美しい姿、色をみせてくれます。とても、美男です。

 

  葉がくれに現れし実のさねかづら      虚子

  不退寺のさればやここに真葛        澄雄

  地震にも耐へし玉垣さねかずら        峠

  美男葛いま青春といふ色に         弘子

 

冬にはいってしまったのに、秋の季題のそぞろ歩きでごめんください。秋を惜しむ気持ちが強いのかもしれません。今年の秋は格別だったような気がしています。     

                                  


19) この秋は……、

 

この秋は、さて何の秋といえばよかっただろうか? と考えてみた。

食欲の秋というには目方が目に見えてふえたわけでもなく、スポーツの秋に仲間いりできるほど筋肉がみなぎってもいない。読書に親しむにはほど遠い視力しか、両目には残っていない。いちいち眼鏡を掛けたりはずしたりしながら、文庫本の小さな活字を追いかけるのはつらいし、面倒だ。かといって菊版の単行本は重い。写真集みたいなものを見ることもいいのだが、読書とはいえないだろうな。いえないな、読むんじゃないものな。

僕にとっては俳句の秋だった。などと少々照れながら思ってみよう。

残暑、朝顔、星月夜などという兼題に挑み、震災忌に思いをめぐらしたり花野や霧や露に身をあずけたりして作句してきた。七月以来の久しぶりの吟行では、丹波路の真っ青な秋空のもと柏原という織田家ゆかりの城下町を訪ねた。田ステ女がニの字を残しながら渡っただろう木の根橋を拝見することもできた。清潔で静かなスッキリとした秋を満喫させていただいた。尼崎・近松門左衛門ゆかりの廣済寺で近松さんのお墓に手を合わせたのも俳句のおかげだ。それにしても近松さんのお墓は小さかったなあ。落柿舎の去来の墓とどっちが小さいだろうか? と思うほど小さかった。およそ天下に近松ほどの小さいお墓に手をあわせたのも、「たおやか俳句」での特別吟行授業で、佳乃主宰についていったおかげだ。

秋は吟行俳句に最適の季節なんじゃないだろうか。

 

刈りかけし田面の鶴や里の秋       芭蕉

   秋もはや宇田の炭窯煙けり          鬼貫

   子規庵の秋は淋しや我も老いぬ       虚子

   秋鍬の切れ味見よや土の秋         泊雲

   見えがてに遲る人や野路の秋       たけし

   先に行く人すぐ小さき野路の秋        立子

   秋の虹一生涯を荘厳す            弘子

   秋の水暮れゆくほどに光満つ         佳乃

 

秋は心の琴線にふれてくる句がいいなあ。寂しみであったり、懐かしさであったり。人恋しい季節だものなあ。とりとめも無くこんなことを書きながら秋を惜しむことにしよう。

                                   〆


18)一茶の好きな……

 

 『擬音語・擬態語辞典』という文庫本を買ってしまいました。

「国語辞典でまともに取り扱われてこなかった擬音語(わんわん・ぴーひゃら・ばりばり・ごとん、などの音や声を写す語)や擬態語(きらきら・ぴくっ・じろり・ふんわり、などの状態や様子を写す語)を真正面から取り上げ、その意味と歴史的な変遷や文化的な背景を解き明かした辞典」と前書きにあります。

 うーん、これはかなり腰を据えて取り組まれたものだぞ、きっと面白いし役に立つはずだ。そのように考えて円虹の例会にゆく直前の朝、堂島の書店でもとめたのです。600ページにもなるこの本のなかにはコラムが20点挿入されています。その中の一つに、⑥擬音語好きの一茶さん――俳句と擬音語、というものがありました。なんでも一茶は、芭蕉の5倍、蕪村の8倍も多く作っているということなんだそうです。へーっそうなんだ。じゃあ、一茶の句集を見てみよう! となってしまい、付箋をはりながらページを繰っていった次第です。そして結果がこの写真。ページ6句で、350ページもある句集なのだが、付箋を貼らない見開きが無いんじゃないか? というくらい多い。驚いてしまった。あまり多いのでまだ数えてはいません。たとえばこんな句。

下駄からりからり夜永のやつら哉  (七番日記)

 よほど腹がたったのでしょうね、「やつら」ですものね。

   水鳥よぷいぷい何が気にいらぬ  (七番日記)

 そりゃあ水鳥だって気に入らないこともあるでしょう。けれど「ぷいぷい」言ってましょうかねえ? 

   子宝がきやらきやら笑ふ榾火哉  (おらが春)

 子宝っていう云い方はさておいて、「きゃらきゃら」。これは楽しそうな感じにあふれていますねえ。そしてこんな句。

艸山のくりくりはれし春雨     (文化句帳) 

うそうそと雨降中を春のてふ   (文化句帳)

ほちやほちやと藪蕣の咲にけり (文化句帳)

 「くりくり」も「うそうそ」も、そして「ほちゃほちゃも」私にはわからない。これは完全に一茶さんの感性でしかとらえられないオノマトペアだなあ。それよりも、

 

  黎明の虹あはあはと鷹の空     弘子

 

 というような美しいわかりやすい句の方が、やっぱりいいなあ。

                                    〆


17)秋桜、曼珠沙華

 

 墓参のついでに小さな秋でも撮ってやろう、とカメラをもって両親のねむる箕面山へ行ってきた。いい天気、澄んだ青空、白い雲。暑くなく寒くもなくて、よくぞまあ、暑さ寒さも彼岸までなどと言ったものだ。昔の人はえらいなあなどと思っていたりする、能天気な墓参りだった。

かえりは田んぼの畦をとおるときめて、リュックにしのばせた小型カメラを取り出した。案の定、曼珠沙華が畦にあふれて真ッ赤だった。よく見ればアゲハチョウがひらひらひらひら花の蜜を吸っている。秋らしくない蝶ではあるけれど。稲穂にはコメが実っている。鳥威しが、風に揺れてねじれて光っている。もうすぐだ。なんだかそう思った。何がもうすぐなのかはっきりしないけれど、もうすぐだ!


四十路さながら雲多き午後曼珠沙華                           中村草田男

曼珠沙華どこそこに咲き畦に咲き                              藤後左右

みほとけに近きは白の曼珠沙華                               山田弘子

 

 曼珠沙華のあやしい呪縛から放たれて歩けば、コスモスの咲く一画が出現した。けれどこのところのコスモスはオレンジ色の花ばかりだった。そのなかでぽつりぽつりとピンクの花もみつけることができる。コスモスはこの淡紅色だろう。白だろう真っ赤だろう。けれど、小さい秋を撮ろうと決めた墓参だから、シャッターを押した。ひと色でそろったコスモスもまた美しいものだった。


コスモスはギリシャ語で「飾り、美麗」を意味するそうだ。和名はアキザクラ/秋桜だが、もともとメキシコが原産地だ。コロンブスのアメリカ大陸発見のあとヨーロッパに渡ったのだ。コスモスの名にふさわしい雄大な旅をして、いま箕面の僕の眼前で咲いている。

 

  コスモスや雲忘れたる空の碧       松根東洋城

  コスモスのゆれかはしゐて相うたず       鈴鹿野風呂

  コスモスといふ片仮名の好きな風       山田弘子

  コスモスの色掻き混ぜてゐて静か       山田佳乃

 

 佳乃主宰のこの有名な一句について宇多喜代子さんがこう言っている。

「雑多に咲いたコスモスのたたずまいをよく見た句である。やはり見ることが大事。今後のたしかな歩みを期待したい一人。」(『戦後生まれの俳人たち』宇多喜代子著 2012/毎日新聞社発行

                                     

 


16)露草

 

 「月草」という別名も持つ露草は、まだ夜の明けないころ、月のさすうちに咲きはじめる。ほたる草、あお花、うつし花など美しい異名を持っている。


 

  くもまにはまだ有明の月くさに咲きまじりたるあさがほの花   大田垣蓮月

 

 これは朝顔をうたっているんだけれど、露草の紺と朝顔の紺色が朝方の淡い光のなかでほのかに囁きあっているかのような情緒を感じてしまう。

ほの白く夜が明けそめて俳人が目をさますと、

 

  露草に日の当りきし垣根かな      深川正一郎

   露草も露のちからの花ひらく       飯田龍太

 

 と詠まれて、露草も色を濃くする。露が光る。

花苞の形から、帽子花とも呼ばれる。けれどこの花の命は儚い 。朝露が消えると、追いかけるように色を無くし、しぼむ。どこにでもいて寡黙だから見過ごされてしまう花なのだが捨てがたい情感を持っている。

 

  露草に似たる女を訪ねばや       虚子

 

 どんなご婦人だろうか? 朝早くからつつましやかに日を暮らす、寡黙な女性だろうか。たすき掛けして朝日を受けて……。そんな風に想像したいのは、僕のわがままだろうか。

 

露草やキヤンピングカーまだ覚めず   弘子

露草や犬の病に今日ひと日       月子

 

 愛犬へのつらい思いのなかで、露草にほんの一瞬癒される。朝早くからの覚悟だ。

 

 

 掲載した写真は、今朝摘んできた露草と仙人草。箕面山の奥の細道の日のあたる側に咲いていたもの。摘んだ時には露が光っていた。仙人草はほのかに香っていた。

 

                                     〆


(十五)あさがほ

 

庭に咲いた朝顔の花をかぞえ、三っつ咲いた、いや四っつなどと言い合って一日がスタートする。塀の内側のプランターに植えたわが家の朝顔は、日当たりに難があるんだろうか、それほどたくさん咲いてくれない。株分けした娘の家のベランダでは、毎朝五つも六っつも咲くというのに。けれど八月も下旬になると、心なしか花が大きくなったようで、色が冴えてきた。なんというか、涼やかなのだ。朝ご飯が楽しいのだ。

 

 朝顔に我は飯くふ男かな     芭蕉

 

 万葉集のなかには朝顔をよんだ歌が四首載っているそうだけれど、この「あさがほ」は「ききょう、むくげ」のことらしい。それが『源氏物語』の「朝顔」の巻では「朝顔のこれかれにはひまつはれて有るかなきかに咲き」と書きあらわされている。つまり平安時代には今われわれが見ている蔓の朝顔のことを言うようになったということだ。(「朝顔と日本人」西山松之助 より

十八世紀後半には多種多様の朝顔が栽培されるようになり、幕末の文化年間からは、「変化咲朝顔」が驚くべき発展をとげた。文化十四年の『あさがほ叢』には502種の朝顔と、変化朝顔100種の図が載っている。()江戸の人びとの朝顔への愛着、思い入れがしのばれる。

洋風化した現代の暮し、住まいにはあまり似つかわしくないのだろうか。朝顔市が衰退して、開かれなくなったりしている。すがすがしくて儚くて、朝ご飯がおいしいんだけれどなあ。

 

 ふるさとに朝顔の紺海の紺        有働 亨

 朝顔や路地に日の射すこの時刻     鈴木真砂女

 島径や草に絡みて野朝顔         山田弘子

 

子供のころには、朝顔のまるい袋に包まれた種をとっておいて毎年咲かせたものだった。ご近所もみなそうだ。花をとって赤い液青い液をつくっては紙を汚してあそんだ。アキアカネが飛びはじめて、夏休みの終わりを告げているような、寂しさの漂うころに。

 

 朝顔の種揉んでとる吹いてとる      有山八洲彦

 


(十四)瀬田の花火

 

 お盆が明けて小雨の朝、瀬田川の河岸に立っていました。17日の夕べの唐橋の花火を見上げようと足を運んだのです。昼を過ぎても雨が降り続いていて、無駄足だったかな? という気持ちももたげていました。

2年前に瀬田川のすぐそばの集合住宅に越した末娘の誘いがあったのです。7階に住んでいるものですから、ヴェランダからは手に取るようだよ、ということで越して2回目の花火大会に家内と出向いたのです。それでも午後5時には「ドーン、ドン」と音と白い煙だけの、「花火の空砲」が打ち上げられました。びっくりした孫を抱きながらヴェランダに出ると、比叡山のあたりからしだいに明るい空が広がって来ていました。

6時にはまた「空砲」が打ち上げられ、何がなんでもやりますよ! っていう気概の表現がなされました。川面に警備の舟艇、対岸の屋台の明り、屋形舟の提灯。何やらにぎにぎしくなってきました。道路は上りも下りも大渋滞。いよいよだなって感じです。

7時をすぎたころから、満を持したように花火が闇の夜空に広がりはじめました。孫を抱きチェアに坐って見上げていたら、夢心地になって、「少しだけ長生きをしたおかげでこんな素敵な夜を楽しむことができる。また人生の味わいを一つ知ったなあ」なんて思いが体中に広がりました。もちろんもう500ミリリットルの缶ビールは3本目でしたけれど。                              〆


(十三)西瓜

 

  

蔓からもぎたての西瓜が一つ台所の板敷に転がつてゐる。すべすべした、

 大きな、円つこい頭のてつぺんは、まだべつとりと朝露に濡れたまんまで…

 

 という書き出しで薄田泣菫は、随筆集『獨樂園』のなかに西瓜を書いている。続けて「大空のドンキホオテ。真夏の太陽が、きまぐれにも多くの物の中から最もいたは

つて、その黄金の翼の下で羽ぐくみ育てたのは、この頭でつかちな西瓜であった」と。

桃や梨とのちがいの決定的なところは、果皮に近い部分がいちばん甘いか果心が最も甘いか、ということだ、とも記していて今さらながら「確かに! 」と気づかされてしまった。そりゃまあ、西瓜を喰うのに皮をむいてかじりはじめる奴はいないだろうな。やっぱり半分に割って、四分の一八分の一という具合に切ってから食べはじめる。そうなっている。最初にかじるのは、果心だ。

「さくさくと歯触りの軽さにつれて、泡のやうに痕もなく舌の上に溶けてゆくその甘味がひと口ごとにその度を薄めつつ、低めつつ、果てはあり余る水分とともに口中に氾濫するつめたさ、こころよさ。」 (ウェッジ文庫『獨樂園』より

 

井戸水で冷された西瓜は、たまらなくおいしい。小学生のころの夏休みには母の故

郷で毎日たべたものだ。実家のそばを流れる高梁川で遊びつかれて帰ってくると、西瓜白桃マスカットなんかを冷してくれているのだ。岡山県小田郡矢掛町にある土手のすぐ下の村落、夏の川の甘い思い出だ。

 

   西瓜食ぶふるさと人の顔となり      弘子

    やや膝をひらいて西瓜食べてをり     冨美子

 

 西瓜を日本に持ってきてくれたのは、黄檗の隠元和尚だそうだ。ありがたい。

 

                                     


(十二)鬼百合

 

 満を持して、という感じだった鬼百合の開花。わが家の庭のものも、うちの前の路地に並ぶ家々のものも、みな下を向いて花弁をそらせていっせいに咲いた。まったく夏の色をした鬼百合の花、あでやかだ。梅雨明けの宣言はまだだけれど、蝉の声と鬼百合の花がそろえば、もうあきらかに真夏になったといえるのではないか。などと、俳人は思い込んでみる。摂氏三十五度をさす寒暖計はだてじゃない。暑い。

 鬼といわれれば鬼という感じがしなくもないが、どうしてこの百合は鬼という字を冠しているのか? と、今さらながら調べてみた。「‘鬼’は大形の植物であることを意味する。」と教えてくれる書物があった。『和名の由来で覚える372 野と里・山と海辺の花   ポケット図鑑』という新潮文庫。これによると小鬼百合(コオニユリ)というのもあって、花は鬼百合そっくりだ。葉の脇にムカゴがあるのが鬼百合で、無いのが小鬼百合だそうだ。わが家のものにはムカゴがちゃんとある。妻によれば、ムカゴはいつも取っているんだそうで、取らないと、これがあちこちに飛んで芽吹いてくるのだそうだ。庭じゅう鬼百合だらけになるらしい。そんな庭もよさそうだけれどなあ。

 

  鬼百合やりんとひらいてのこゑ    史邦

   鬼百合に白き雨降る吉野村      弘子

 

 漢字「鬼」の語義の最後にちゃんと「並はずれて大きい」ということを謂っている。

つまり何も植物にかぎった物言いではないようだ。オニヤンマなども大きさをいっているようだし、オニバスという蓮もあり大きいものだと、直径三メートルにもなる葉をもつ。オニヒトデという海のいきものもいる。これも大きいようだ。

 そういえば、鬼貫という人もいた。大きいひとだったのではないか? 「東の芭蕉、西の鬼貫」とならび称された元禄期の俳人、伊丹の人だ。俳論『独ごと』のなかで、

つらつらよき歌といふをおもふに、詞に巧みもなく、姿に色品をもかざらず、只さら

  さらとよみながして、しかも其心深し

などと書き残している。

 

  蛍見や松に蚊帳つる昆陽の池  / 夕立のまたやいづくに下駄はかん /        

涼風や虚空にみちて松の風       

 

 というような夏の句を詠んでいる。

 次の吟行会地は伊丹。上嶋鬼貫を偲んで暑さに負けず歩いてみましょう!  鬼百合からずいぶん脱線してしまいました。そぞろ歩きと思ってどうぞご寛恕ください。         

                                    〆


(十一) 青葉木菟

 

 今日、箕面の山に青葉木菟をみに行ってきました。滝へつづく遊歩道のすぐそばに巣づくりをしたらしく、昼間はこの巣のそばを離れないということです。巣の中の卵を見張っているらしいのです。こんなこと箕面山でもとってもめずらしい風景です。

滝道にある瀧安寺の庭守・西谷さんが昨日教えてくれたとおりでした。聞きたかったのは山の尾根にある娑羅の木の開花のようすだったけれど、青葉木菟の写真をみせながら懸命に教えてくれるものだから、行かなきゃな、と決意した次第です。

この青葉木菟、遊歩道から5メートルほど先の、目のたかさに張り出した長い枝にきちんと両手を揃えてこちらを向いて止まっているではありませんか。お行儀よく、みて行ってちょうだいね、っていう感じで。まるい耳のない頭がよーく見えました。オートで撮映したものだからフラッシュが光ってしまった。だけどちっとも驚きません。目をつむっているんだろうか、そんなことで‘見張り番’になるのだろうかと心配したくらいです。夜行性だから夜には虫などをくわえに飛んでゆくそうです。巣に残した子供たちのことを心配しながら、真っ暗な山の中を飛び回っているんだろうな。「親子で巣立ってゆく前には、枝にみんなで並ぶのが見えるんですよ」って、公園管理事務所の勝田さんがいっていた。そんなことがあるなら、俳人としてはぜひ観察させていただきたいものだ。そして心あたたまる名句を残したいものだ、などと思っている。しばらくは通わなければいけません。

我が家のすぐ横の八幡様の楠の大樹にも、どうやら青葉木菟がいるらしく、ときどき夜になると「ほーほー」と鳴く声がきこえてきます。ですが、姿をみせたことはありません。ほーほーと夜鳴く鳥や夏木立、と例会で出句したのは僕ですが、もう少し推敲を重ねたほうが良くなりそうです。

八幡様の青葉木菟は、今日みたものと同じ個体とは思えないけれど、この夏は青葉木菟に恵まれたといえそうです。

 

 青葉木菟夕餉を終へし手を拭けば   水原秋櫻子

 宵々に来馴れて親し青葉木菟     大場白水郎

 

                                                〆

 


(十) 半夏生

 

 庭の半夏生の葉が白くなりはじめて、蟻までが興味深々のようだ。

 建仁寺の塔頭両足院では、もうそろそろ池のまわりの半夏生がみごとな白い葉の群れを見せはじめているのではないだろうか。篠つく雨のなかでボンヤリ眺めていたいものだ。半夏生の咲くころには特別拝観されている両足院、若冲や等伯の掛け軸・襖絵などを鑑賞することもできる。

 

  石見路や雨脚白き半夏生     弘子

   少しづつ哀しみに慣れ半夏生   佳乃

 

 弘子先生の御句は、津和野あたりの門川にそって咲いている半夏生。そこにさっと通り雨が降ったのだろうか。川面を打つ雨、そして揺れる半夏生。雨脚は白い線となって土塀に沿う。石見の国の美しい景色が、浮かんでくるようだ。ほかに、三白草二白のときを剪られけり/尼寺の音なき暮し半夏生、という御句も残しておられる。尼寺の……の句は真夏の日盛りのなか、深閑としてゆるぎない尼寺の境内にたたずまれた時の詠ではなかろうか。

 佳乃主宰の御句は一枚づつ葉が白くなってゆくことを見ての詠、だろうと思われる。平成二十三年の作品だ。前年の二月に、弘子先生が急逝された。その深い哀しみに慣れてゆき、そしてしだいに薄れてゆく。ということなのだろうか? 

ハンゲショウという言葉に、なんともいえない寂しさを感じるのは不思議だ。

 

半夏生白き夕べとなりにける     稲畑汀子

雨降つて止んで日差や半夏生   稲畑廣太郎

 

お二人の御句も、花の白さの鮮やかな景色を詠んでらっしゃるのだろうが、節気のことをうたってらっしゃるように感じることもできる。

 

雨男振りを発揮の半夏生      稲畑廣太郎

 湯沸してつかはずにゐる半夏生   能村登四郎

 

 の二句は節気のことを詠んでらっしゃに違いない。夏の暑さが伝わってくる。

 こんなふうに「半夏生」の句を鑑賞してゆくと、この言葉かなりむつかしい季題なんだ、などと思えてきた。措辞のあり方によって、花のことなのか節気のことなのかが曖昧になってしまうんだから。初学者はよくよく留意してつかわねばならない。 

                                                  


(九) 俳道、というものの姿 

 室生犀星の随筆の一つです。

『俳道』という表題で、北枝の家・俳道・骨格・清閑・漱石の発句、の五編をあつめてあるもので、ウェッジ文庫の室生犀星著「庭をつくる人」(昭和二年刊を復刊)で読むことができます。俳道にはこんなことが書かれています。

 

  ……わたくしは古色蒼然たる発句を愛してゐる。(略)それゆゑ、いまある新傾向といふものに不賛成で、自分一人の意向としては蕉門の風習を侘びることを望んでいる。かれらのねらひさすがに二三百年の向ふを睨んでゐた。動かない所に居たことは今日芭蕉、丈草、去来、嵐雪、または蕪村、一茶などを駢(なら)べてみれば判然とする。ともかくかれらはそれぞれに違つた気持にゐたにせよ、睨みの中に一本の道がずつと今まで続いてゐたことはかれらの身も心もそして己々の道を磨くためには、みなさびしをりかしづいたゝめでなければならない。にらみにさへ永い将来の遠きを見てをれば、詩でも発句のあたひも矢張り持ちこたへるにちがひない。眼前膾炙の粗景に軽々と心を動かすことは考へものである。

 

 長い将来の遠いさきを睨んで句をつくるなどと、考えたこともなかった未熟な自分と

しては困ってしまうしかない。けれど、

 

  ……自分は前栽に一つの筧をひいて涓滴の音を聞いてゐるが、水音といふものは春よりも夏秋のそれよりも、冬深く葉の落ちたところに聞いてゐると、一層の閑寂さが感じられるやうである。火桶を擁しながら売文の埃をあび、喘ぎながらゐるときに水音を聞くのは一陣の清風を身にあびるやうなものである。しかも今朝は池の上に氷が張り筧さへ凍りかゝつてゐるが、水音は半ば涸れながら落ちてゐる。池中の魚は姿は見えぬ。笹の葉はその緑が枯れて簫として霜をあびている。自分は俳道というものゝ姿を見たやうな気がして氷の融けるのを待ち侘びた。

 

 と犀星が書いているのを読めば、そうだろうなと思える。季題の本意を知り尽くした

と感じるまで睨み、長い将来の先を思って作らなければいい句は詠めないのだろう。

  

誰が爲に花鳥諷詠時鳥     京極陽   

                                                  


(八) 蓮の……。 

 パソコンの前にすわれば、窓の外の甕に浮かぶ蓮の立葉がみえる。たった二本だが。

 去年、いただいた蓮の根を尺ほどの幅と深さの甕に植えて水を張っておいたのだ。それがしっかりと根づき、蓮はけなげにも浮葉を生んでくれた。朝日をあびた葉の上の露がきらめいて、雨戸をあける楽しみがふえた。去年は浮葉だけだったのだが、二年目のこの夏には立葉が育っている。一葉は平らにひろがり、一葉は端をくるりと内にまるめて巻葉となって立っている。二葉が風にそよいでいるのを眺めるのは、蝶がひらひらと気ままに花をもとめて飛ぶのを眺めているのと同じように、平和でありがたい。

 

   あしらひて巻葉添へけり瓶の蓮    太祇

一面に蓮の浮葉の景色かな     高浜虚子

 

 宇治の平等院への吟行でみた蓮の花を思い出す。池の中にはもちろん、池のまわりに安置された甕にも大振りの蓮の花が咲いていた。薄桃色のや、白いのやが。それぞれの甕には、蓮の名前が竹の札に書いて添えてあった。毎葉蓮、姫睡蓮、美中紅蓮……。みな風を得てゆるやかに揺れていた。新しくなった鳳凰堂と満開の蓮の花を前にして、極楽というものがあるとすれば、たぶんこんな所なんだろうな? と感じたものだった。

 

  鯉鮒のこの世の池や蓮の花     許六

   蓮の香や水をはなるる茎二寸    蕪村

 

 かつては、東京ではというか江戸では上野不忍池の蓮見が名高かったそうだ。舟にのって蓮の花をめで、象鼻杯で酒をいただいたりしたらしい。蓮の花の群れ咲いている池の上での酔い心地というものは、これまた浄土というべきものだったのかも知れない。

京都伏見区と宇治市にまたがって広がっていた巨椋池も、戦前までは蓮の花などでつとに有名なところであった。周囲16キロメートルもある巨大な湖沼で、平均の水深は1メートル足らずだった。昭和八年から十六年にかけておこなわれた干拓工事でいまはなく、農地そのほかとなっている。この湖に舟にのって蓮をみにいった思い出を、和辻哲郎が「巨椋池の蓮」という随筆で書いている。

 

 最初われわれの前に蓮の花の世界が開けたとき、われわれを取り巻いていたのは、

(つま)(べに)の蓮の花であった。花びらのとがった先だけが紅色に薄くぼかされていて、あと大

部分は白色である。この手の花が最も普通であったように思う。しかし舟が、葉や花を

水に押し沈めながら進んで行くうちに、何となく周囲の様子が変わってくる。いつの間に

か底紅の花の群落へ突入していたのである。  (岩波文庫『和辻哲郎随筆集』より)

 

 二十年前の思い出として昭和二十五年七月に発表された随筆だ。京都から一泊して

早朝に舟を仕立てて蓮を見に行ったのである。典雅な遊山だった。戦争のまえの日本の

美しい季節の味わいかたの一つだったのだ。

 

  白蓮に人影さはる夜明けかな    蓼太

   明けがたや水も動かず蓮匂ふ    大魯

 

 という句などは、舟にすわり蓮の群れ咲く中にはいっていかないと詠めないって感じがする。ひょっとすると巨椋池での作品かもしれないなあ。

 

   ほのぼのと舟押しだすや蓮の中    夏目漱石    

   

 ほのぼのとした気持ちのいい朝でしょうね、蓮見の舟をくりだすのは。それにしても、蓮の開花の音を聞いてみたいなあ。先の随筆のなかで和辻哲郎はポンではなく「クイというふうな鋭い音」が聞こえたと表現している。ポンというかクイというか、聞きたいものだ。

                                    〆


「俳句、そぞろ歩き」 (七)吟行五月

 

汝が為にかくうるはしき五月来し  弘子

 

 と山田弘子先生が詠んでくださっている、五月です。なんなんでしょうか。嬉しくて、ほがらかな気持ちになりますよね、どうしても。北の国の人も南の島のウミンチュも、みんなみんな五月ですよ、あなたの! って大声を発したくなります。

 あんなに雨ばかりだった春が過ぎて、一夜開ければ夏日かな、なんてことだものなあ。一歩外に出ると、どこに目を向けても花が咲いている。葉っぱが青い、水が光ってる。風がうたってる。あーあ五月だ。ほんの少し背が伸びたような気もしないでもない、五月だ。

 

   子の髪の風に流るる五月来ぬ  大野林火

    藍々と五月の穂高雲をいづ   飯田蛇笏

 

やわらかな髪がふさふさと伸びた吾子ももういないし、穂高を望む山里に住んでいるわけでもないけれど、光を浴びに、そして木々の香りを嗅ぐため青々とした自然の真っただなかを歩きたくなる。一人ででもいいし、良き友と並んででもいいな。

 吟行がいいぞ。この季節、川辺をそぞろ歩くとか、遠く連山を眺めやりながら、諸鳥の声にふりかえるとか。あるいは道の辺の草花を摘んでみたり、嗅いでみたりして句帖をうずめてゆくのはとても楽しい心はずむことだ。ただ忘れてならないのは、夏帽子です。日傘です。

 

  すぐそこの栗山にさへ日傘さし  弘子

 

 くらいの心の準備は必要ですね。さあみなさん、準備はしっかり怠らず、五月の吟行に出発しましょう。一人吟行、仲間吟行あるいは誌友と揃って青空のもとへ。吟行できる自分を楽しみましょう。

今回は、吟行係としての「牽強付会」を含む……


「俳句、そぞろ歩き」 (六) 筍                              

 

 筍を掘った。大阪・服部緑地公園の近くの竹林で長女と二人。小学校時代の級友がさそってくれたのだ。友人は、いまも生まれた家に住んでいる。生まれた土地を愛している。熊野町という、五十年前は大阪・豊中市でもずいぶん田舎の土地柄だったところだ。そこの熊野田小学校で同級生だった。住んでいる地域がちがう新参ものの僕を、ため池や小川などでいろいろと冒険させてくれた田中君が招待してくれたのだ。

生まれてはじめての筍掘りだから、心はときめいた。斜面のものを掘ると楽チンやでとか、三十センチ位い頭が出ていても食べられるでとか、日のあたっているところがええんやなどと教えてくれる。だがどうだ、掘るってことは大変だ。竹には太く頑丈な根がある。こいつが掘ることの邪魔をする。鍬がひっかかるのだ。鍬は重いから狙った位置におりてはくれない。なかなか想像どうりにポロリとは筍は土から出てくれないのだ。生まれて初めてなんていう感動はなんの力にもなりはしない。汗が吹き出る。眼にはいる。えっ、筍ってこういうことなの? と感じ、思い知らされて十本ばかり掘ってみた。

 

 たかんなの土出でてなほ欝欝と    山口誓子

 竹の子のかの子この子と伸び盛り   山田弘子

 

長女はさすがに若い。僕がギブアップしたあとも汗を流しながら掘っていた。「お父さん、朝掘りどころか、さっき掘りやからめちゃ旨いで! きっと」と帰りの車のなかではずんでいた。そうやろなあ、ならば火鉢に火をいれて、焼き筍ってものを食ってみるかなどと計画してみた。家に戻るなり火を起し、小さなものを四つばかりフォイル焼きして食った。醤油をつけて酒を付けて。

 

 時かけて初筍のひとり酒   石田波郷

 

あーあ、なんとまあよろしいことかなどと、妻と長女と僕の三人で、「さっき掘り」の筍をいただいたのだった。こんな根っこをありがたがって、ワクワクしながら食ってよろこぶなんてこと欧米人には分かるまい、などと、ちょっと酔っては筍の太いセルロースを歯の隙間からひっこぬく僕だった。

だが必ずしもそうではないらしい。辰巳浜子さんの『料理歳時記』にはこんなことが書いてある。「先年マキシムのペニョ家族をお花見に招き、筍を四センチくらいの厚さに切ってひと抱えもある大皿に盛り合わせて供しました。“Bambouと、とてもとても喜び、私たちの口によく合うといってくれました」と。とてもとても、という言葉は決して社交辞令ではないだろう。フランスの美食家にも、わが筍の味はわかるのだ。筍おそるべし。筍はインターナショナルだ!

 

 筍のまこと無骨な荷が着きぬ   山田弘子

 

                                                 


(五)推敲は、楽し                       (H27.4.14寄稿) 


 せんだって難波・産経学園の俳句教室で「推敲」の大切さを教わった。『円虹』の前編集長吉村玲子先生に。教材は『四季別 俳句添削教室』(角川学芸出版。絶版)だ。山田弘子先生と宮津昭彦先生の共著によるこの本は、角川の月刊『俳句』に連載されていたものを一本にまとめたものだ。

 吉村先生の教材は、抜き書きされた例句五句を、「山田弘子先生になったつもりで、添削してみましょう」というもので、各自にやってみて山田弘子先生がおこなった添削結果とくらべる、という形式だった。違いがあまりにも歴然として、びっくりした。と同時に「へーっ、ここまでやってもいいんだ」などとありがたく感じさせてもらった。ひとさまの句は論外だけれど、自分のつくった俳句なら添削し放題だもの。つまりこれが推敲ってことだな、などと思い至った。

一人の吟行で下書きをした句を、季重なりや切れ字の重複、文字の間違い文法違いなどばかりチェックしないで、上中下の置き換え、大胆な省略なども試みて、いつもとは違うまとめ方をしてみるのも大切だ、そういう教えだった。

初学の自分には本当に大事な修練だ。そのように受け止めた。

しかしこれ、デジカメの撮影の感じでもあるなあ、と思うのも僕のおかしなところかなあ。いいなあと感じた景色、状況、事柄をとりあえずカメラに収める。絞りを変えてみたり、シャッター速度を変えてみたり。で、家に帰って画面をにらんでは、気に入らないものを捨てていく。「少し暗いけれど、こっちのほうが力強いなあ」などとつぶやきながら写真を取捨していく。それがまた楽しいんだものなあ。シャッターを押した時の感じ方と違って、画面でみたときのほうが面白い、なんてことがあるもんなあ。

これって、言ってみれば推敲だよな。添削ではない。「推」にするか「敲」がいいか、という迷いだからなあ。推敲ってことだよなあ、間違いない。詩を感じて句にしたが、

しばらくたって冷静な目でみてもそうなのか? ってことだものなあ。俳句を詠むってことの楽しみは推敲にあるのではないか? 推敲するという形而上的な時間を持てるということが面白いのではないか? 漫然と自然を愛しているだけでは味わえない生の喜びって、推敲にあるんではないか。と、そんなふうに少し酔いながら考えてしまった。俳句を詠む目線っていいなあ。推敲する思考って、とてもいいなあ。 


() 短冊の墨 

                          藤本たける(H.27.4.1寄稿)

 

 せんだって佳乃主宰の俳句教室で、短冊を書いてみる時間があった。阪急電鉄の塚口駅近くの教室でのことだ。自分の句を短冊に書いて展示し、ここの文化教室の作品展をもり上げるための一助とするためだ。

先生は高濱虚子とか京極杞陽、そして稲畑汀子先生など、高名な方の短冊を見本にもってきてくれていた。句の字数によっては、書く文字の大きさをちがえなければならないからだし、署名の位置をどこにしたらいいかを参考にするためだ。自分の句を書いたすぐその下に書くこともあるし、句の左や右側に俳号を書く場合があることも知った。落款はいらない。そんなことを教えていただきながら、半紙やらお稽古用短冊やらで自分のつくった俳句を書いてみた。けれど普段から筆を持って文字を書いたことがない人達が多いもんだから、大騒ぎだ。筆ペンで書くのもいいんだが、どうもボールペンの太い文字のようで、太い細いが無いし、かすれも無い。

つまりまあ先生がもってきてくれた見本のような味わいがちっともありはしない。まあもちろん、句そのものの味わいも、あるのかどうか。それはそれとして短冊だ。で、やっぱり、筆で書こうよ、という気分になる人もいて、やはり主宰がもってきてくれた墨と筆でチャレンジする人が出て来た。半紙に書き、模造短冊に書いたりしているうちにだんだんさまになってきた。たいしたもんだ。やるかやらないか? それだけのことだ。というようなことを、身をもって教えてくれる俳友がいる。そして、ちっとも書けない仲間もいる。さまざまだ。短冊は短い。短冊は細い。そして墨は黒く、いい香りがする。日本人はやっぱり大した文化を伝え続けている。そうだよなあなんて、思ったりすることもある。

 僕がなぜかもっている、山田弘子先生の短冊を内緒でご披露します。四国・「雅の郷」に一泊で吟行に行ったとき、特選をとった者にくだすった短冊のうちのひとつです。

 

   冬枯に濁世の塵を遠く住む  弘子

 

 という句の短冊です。これが僕の宝物です。「あなたにぴったりの短冊ね」っていわれながら頂いたものです。

(三) 大阪場所 

                     藤本 たける(H27.3.19寄稿)


 やはらかに人分け行くや勝角力   几董

相撲をナマで観ることができました。この歳になって、こんな贅沢ができるとは夢にも思っていませんでした。これまではナマ中継ばかりで、熱気も匂いも、直接僕の身体に伝わるなんてことはなかった。それがまあ、大阪府立体育館いっぱいの声、音、匂い、振動。何もかもがダイヤルを廻しきったような高レベルで、僕を襲ってきました。枡席はスゴイ。

お茶のはいった急須をさげた、たっつけ袴の太郎さんに案内されて着いたのは

26の枡でした。東、ですから白鵬は背中しか見えなかったけれど、豪栄道は真正面にみることができました。負けてしまいましたが。

 老相撲負けて戻つて小鳥飼ふ  岡本松浜

 豪栄道さんは老いてはいないし、まだ小鳥を飼ってはいないだろうけれども、負けるのはいやだろうなあ。だいいち、あんなに分厚い懸賞金を稀勢の里に独り占めされちゃうんだものなあ。懸賞金があれば小鳥を買えただろうに。


少年のころの本場所を思い出しました。栃錦、若乃花、鶴ヶ嶺、琴ヶ浜、それから大鵬と柏戸。さまざまなお相撲の得意技と顔の力みがいくらでもよみがえってきます。髭の式守伊之助、木村庄之助。立行事もみんな個性的でした。はっけよい、でした。お相撲はいいなあ。世間をはなれ昨日をわすれて大声で贔屓力士の四股名を呼ばわれる。ハルマフジー! って。ゴウエイドウォ! って。

僕の親父も相撲好きで、亡くなるまで千秋楽翌朝の、15日間の星取表を切り抜いてストックブックに貼り付けていた。「これで見たら、いっぺん十両に下がった力士がまたはい上がってきたことなんかが分かるんや」なんていってたなあ。それが分かってどやのん? とはいい返さなかった。


僕が相撲に開眼してしまったのは、骨折で外科病院に長期入院をしたときだった。昭和天皇がお亡くなりになった年だったなあ。4人部屋の4人が、中継開始と同時にTVをつけて相撲中継に見入ったもんだ。ほかにはすることがない4人、窓の外を眺めるくらいしかすることがない外科の患者は、相撲を愛した。なぜだかなあ? いいんだなあ。それまでは辛気臭かった「しきり」にも味がある、なんて思えるようになった。そうか、世間にはベッドの上でじっとみている人が大勢いるんだ、きっと。とか気づいたりしたなあ。日本人はいいものを持っていますねえ。俳句のほかにも、お相撲も。



 () おでん

                   藤本 たける(H.27.2.28投稿) 

志俳諧にありおでん食ふ

と八十四歳の高浜虚子は詠んでいる。昭和三十三年のことだ。その四年前八十歳で文化勲章を受けている虚子であったが、おでんを食いながらまだ「志」をいっている。

   振り向かず返事もせずにおでん食ふ

は、六十九歳の句だが、七十六歳のときには

   おでんやの娘愚かに美しき

と感じている。

高浜虚子はおでんが好きだったし、おでん屋でも娘さんが奉仕してくれる店を好んだようである。

ところで弘子先生には、

おでん屋に集へる背中相似たり

本音まだ洩らしてをらずおでん酒

と、どうやら屋台でのおでんを好ましく感じてらっしゃったようだ。大根だとかガンモなどを食べたのだろうか? 関西ではガンモじゃなくヒロウスだったなあ。

 そういえば昔、そうだなあ230年も前だろうか、梅田の露天神つまりお初天神の南

の鳥居をはいってすぐ右側に「常夜燈」という関東(かんと)(だき)の店があった。森繁久彌さんの

みの店で、色紙が飾ってあったっけ。「おでん屋やおまへん。関東煮屋だす」なんて

ってたなあ、親父さん。カウンターだけの小さな店だった。妙に清潔な感じのする

寿司屋みたいな関東煮屋だった。ここでひょっとしたらその昔、虚子さんと弘子さん

が偶然出会っていたりしたことがあった。なんて話があったらいいのになあ。ないだ

ろうなあ。

 大阪難波の旧歌舞伎座裏に、「白蓮」という屋号のおでん屋があった。今でもある

な? ここは堂々とおでん屋といっていた。おばあさんがカウンターのこっち側に

どかっと坐って、「醤油を小さじ三杯。砂糖をちょっとだけ」なんていいながら、カ

ウンターの中の兄さんに味加減を指示していた。客にはぞんざいな物言いをする。け

れどなぜか(値段が安いこともあるが)若い客が多かったなあ。南北に長ーいカウンター

で、座席のすぐ横に木の柱があったりした。「若いころから頑張って、横の店を買っ

ては大きくしたんやで! 」なんていうんだなあ、このおばあさん。

「そしたらあれやねえ、いつか本町あたりまで店は伸びたりすんねやろなあ」なんて

とを僕がいっても笑って聞いてくれていたなあ。ゆで卵のおでんを食いながら「壺

酒」を呑んだ。半樽(はんだる=二斗樽のこと。結構大きいのです)をカウンターの中の端に

据えて、酒と頼めばこの樽酒を片口で受けてコップに注すという呑ませかたをしてい

た。若者は呑まないけれど、馬鹿者の私はよくいただいた。この酒を樽の杉の香が濃

くならないうちに、虚仮猿の壺(見たことないけどね)みたいな壺にいれて冷やしてあ

る。これが「壺酒」であり、旨いのである。うーーん、よだれが溜まってきたぞ。大

根の熱いのを割り箸で八等分したりして、婆さんが水で練ってくれる辛をつけてハ

フハフと食う。うまいんだこれも。南の夜がじーんと暖かくなったもんだ。

  大根煮なればまだまだ娘に負けぬ    弘子

「煮な()ば」であって「煮な()ば」でないところが、いいなあ。湯気が見えてくるも

なあ。美味しそう。

 () 風

                 藤本たける(H27.2.9寄稿)

 

 春を待つ心がしだいにふくらんで、今年もまた手袋を片方なくしたことなどちっとも気にならなくなってきた。冷たい風が吹きもするんだけれど、春を隠し持っているって感じがする。匂いだろうか色だろうか、気のせいだろうか。すっかりの春の感じが、たしかに近づいているのです。

 メジロの番いが毎日やってくる。セキレイが相変わらず忙しく尾を上下させて土の上をとことこ跳ねている。大きな体してヒヨドリがメジロに驚ろかされて逃げたりする。小鳥たちの世界でも、新年度がはじまろうとしています。

 春の季題には風を取り込んだものが二つあります。「風車、風光る」です。()()風が薫るのは、夏。冴えるのは、冬ですよね。

 

  街角の風を売るなり風車    三好達治

 

 今でも風車を売っていたりするんでしょうか、あでやかな彩色の固い紙の、そしてセルロイドの風車を。傍題にある、風車売りのことを詠んでらっしゃるんですね達治さんは。「甍のうへ」という詩で、すっかり有名な詩人です。むかし国語の教科書に載っていましたね。「あはれ花びらながれ / をみなごに花びらながれ …」とはじまるとてもきれいな春の詩です。

 句の出来としてはどうでしょう? 「風車」と下の五に置いたのが余韻を感じられず感心できないけれど、「風を売る」って言葉の置き方にちょっと惹かれますね。なにより街角に春がやってきたぞって、みんなで風車まわそうよってところが、幼い少年みたいでいいじゃないですか。僕も回してみたくなります。

「さし上げて春風にあり風車/虚子」 「風車ひとつのこらずまはりけり/倉田素商」というような句もあります。風車って、風で春を表現するのにはとても有難い季題ですよね。あたらしい夢がまわっているってことのようだもの。

 

 風光る少女の似合ふ野球帽   弘子

 

 この帽子のマークはどこのチームのがいいかなあ? 阪神じゃないなあ。