誌友による一句鑑賞

谷原恵理子の一句鑑賞   (平成28年11月17日寄稿)

 

秋めくやピアノの端に日のかけら

 

                    前田   登美子

 

かけらに詩情がある。

 

夏の強すぎる日差しが、力を落とし

 

ピアノの端にかけらとなって落ちているのを見つけた作者に、小さな秋の兆しが訪れたのだ。

 

そんな鋭敏な日々の小さな変化を感じる心の目が捉えた日差し。

 

ピアノという硬質なものに弱くなった日が小さな固まりであり、かけらとなって見えている繊細な視線が美しい秋の一句となった。

 

 

 

雑詠より

 

淡かりし母との縁水羊羹

 

                       藤井  啓子

 

水羊羹にこんな哀感を込めることができるのだなあと思った。

 

早くに亡くなられたのか、離れて暮らす時が長かったのかわからないが、水羊羹の淡く溶ける口あたりは、甘く懐かしい。

 

そして、反芻する間もなく消えていく淡い縁は少し哀しい。

 

水羊羹を口にして母との縁に行き当たる母と娘は、濃くも淡くも、生きている限り繰り返し訪れる命題なのだと思い当たるのである。

 

 

 

暑き日の最も暑き刻を行く

 

                三宅    久美子

 

 

 

辛い、暑いと言うよりも圧倒的な暑い時間がこの句にはある。

 

最も暑き刻を行く、その言い切りに、厳しい夏の日の暑さが蘇るのだ。

 

場所も省略され、何処へ、とは書かれていない。

 

長い長い暑い一日の、大げさかもしれないが、出かけて行く時の覚悟がいるような最も暑い刻。

 

決死とも言うべき夏の午後の暑い時間の外出が見えてくる。

 

時間に焦点を当て、長さが暑さをいや増すような省略の効いた一句である。

 

谷原恵理子の一句鑑賞   (平成28年7月17日寄稿)

 

さゆらぎもせぬしじまあり大桜

 

                    佐竹  美保子

 

 

 

大きな桜の下には、雪がふる夜のような静けさがある。

 

主観であるが多くの人がこんな気持ちになるような時間が桜の下には流れているようにおもう。

 

風がある夜なのだろう。

 

さゆらぎもせぬと反対の描写をすることで、風の騒ぐ夜なのだと知る。

 

しかし、作者の立つ大きな桜の下までは、風の音も届かず、しじまがあるばかりである。

賑やかな桜の夜ではなく、作者が一人桜と対話する時間。大桜にすっぽり包まれたしじまに、風すら入り込めない、桜の木と作者の密なる時間が感じられ、時間的な広がりも感じる句だ。

 

 

 

恋心薔薇の棘よりもらひたる

 

                     池田   敦子

 

作者のことを何も存じ上げないので、この句が虚か実かは知らない。

 

ただ遠い昔を思い出せば、恋心とはチクチクと刺す痛みの方が多く、楽しいばかりではないのである。

 

触れればどこかから血が吹き出すと知りながらも、それでもなお薔薇は美しく、素手でさわらずにはいられない。

 

しかし、そんな胸の痛みすら、今となっては甘い思い出である。

 

当時は、辛かった思いや、傷ついたことも、今は薔薇の棘からもらう

 

甘やかな思い、一瞬蘇る記憶だ。

 

もらひたるであるから、小さな華やかな痛みを感じ、その痛みを昔の恋心と同じと言っておられるのか、それとも今揺れて痛む心を、棘に刺されたことにしたのか、女心の深さと

 

魅力的な謎とを感じさせてくれる句である。

 

 

 

 

猫の子の積み重なりて眠りをり

 

 

 

                     山口  美津栄

 

春の季語である子猫。優しい日差しと温かい眼差しを感じる句だ。

 

猫好きには、たまらない光景で、可愛さに目を細めて見ておられる作者のふんわりとした幸福感も漂う。

 

 

 

積み重なって互いの体温に安心して、小さな寝息を立てている子猫たち。見たことがある光景だが、こんなふうに体温の感じられる優しい句を、猫好きの身としては一度でも詠んでみたいなと思う。

 

重なりて眠りをり、とりが三度繰り返され、調べが美しい。

 

 

 

谷原恵理子の一句鑑賞   (平成28年6月16日寄稿)

 

放牛や尽きることなきクローバー

 

                       鈴木   桂子

 

 

 

手放しで明るい句だ。

 

広々としたクローバーの茂る野に

 

牛が放たれ、のんびりと食んでいる。

 

ウマゴヤシとクローバーは基本は違うのだが、この幸せな感じはやはり、クローバーなのだ。

 

遠景のように、少し離れた場所で

 

この光景を遠い光のように見つめている作者がいる。

 

世はギスギスした事件が起こり、情報が錯綜するが、野原に牛が放たれ、草を食む平和は、一幅の絵のようで幸せな時間が流れている。

 

尽きることなきという中七により、作者の永遠の平和を願う心が込められていることを感じる。クローバーの響きが、時間を伸ばしていくような広やかさがあり、明るい世界である。

 

 

 

漣をさらに微塵に蘆の角

 

 

 

                     赤田 

 

 

 

これはやはり、琵琶湖の光景だろうと思う。

 

春のまだ肌寒い頃、尖った角のような蘆の芽が出る。

 

萌え出ずる蘆の角は、水辺の春の象徴だ。いつ訪れても琵琶湖は光に彩られた場所だが、きらきらした光が蘆の角にあたり、微塵にされ、繊細な光が目を射るような眩しさを感じた。

 

壮大な蘆原は、琵琶湖の原風景であるが、その蘆は生命を育む場所であり、微塵の光は確かな湖の春の到来を告げているのだ。

 

 

 

円虹   雑詠より

 

 

 

流し雛のせて小舟の軽さかな

 

                

 

                      杉本  美佐子

 

流し雛を以前、見に行ったことがある。雛をのせるのは、軽い藁や紙でできた小舟で、無病息災を願う親の思いを、その形代に移され、急流に流されていくのである。

 

人の形になり、花や菓子なども添えられ、紙の人形が流されていくのは

 

なにかせつない。すまないような気持ちが起こるのだ。

 

事実だけを写生した、軽さかな、の詠嘆に滲んでくる気持ちがあり、雛をのせたその先の、沈んでいく急流までも思いは続いていくのである。

 

 

 

 

 

谷原恵理子の一句鑑賞   (平成28年5月18日寄稿)

 

良寛と童の寺の犬ふぐり

 

 

 

                石井 宏幸

 

良寛は越後出雲崎の光照寺で出家したが、生涯寺を持たず、托鉢に出る時には、必ずおはじきと手毬を頭陀袋に入れ、良寛の表れる場所には子供たちが、遊ぼうと待ち受けていたという逸話が残されている。

 

光照寺か、仮住まいをしたと言われる西照寺での一句だろうか。

 

春の日に子供等と良寛の手毬つく音、かくれんぼの声がのどかに聞こえてくるような寺の一隅に犬ふぐりが咲いている。

 

詩人、歌人、書家で、その書は神品とまで讃えられながら、自慢と言えば、手毬をついて誰にも負けなかったという良寛のおおらかな、温かな人柄に、犬ふぐりが実によく似合う。簡単な言葉で仏法を説き、子供の純真な心にこそ仏の心があると信じた良寛に、素朴な明るい小さな犬ふぐりが、尊い星のように光っているのである。

 

 

 

白梅の我に向く香に近付きぬ

 

 

 

                        金沢   正恵

 

艶やかな紅梅より気品ある白梅の香に捉えられ、白梅は作者を向き、香を放っている。

 

白梅と作者の間にある種の緊張感が漂う句である。

 

奈良時代には、花と言えば梅を指したのだそうだ。

 

その凛とした梅は、向くという表現で、擬人化され、対話するかのように作者を引き寄せる。

 

花と人の距離が縮まっていく時間の流れにも物語があり、対話があると感じさせる、緊張感あふれる一句であり、心に響く深さだと思う。

 

 

 

薄氷のやうな少女の反抗期

 

                  西澤    与志子

 

 

 

薄氷とは、すぐに消えていく一瞬の

 

儚い美しさを持つ。

 

凍てつく空気によりできる薄氷に、一過性の反抗期を重ねてみた句。

 

少女だからこその薄氷であり、反抗期には親も手を焼くのだが、何かどうしようもなく、そこを通過せずに済まない少女期の輝きとも取れる反抗期。作者はそこに若さの一瞬の輝きとやがて失われていく煌めきのようなものを、薄氷に託し見ているように思われる。

 

パリンと割れて、滑らかな水の流れとなる薄氷のその先も見えるような、薄氷というものに、生命の輝きを重ね、少女を出現させた句が、美しく思われた。

 

谷原恵理子の一句鑑賞          (平成28年3月15日寄稿)

 

凩や火吹竹吹く母のこと

 

                岩谷   玉貴

 

 

 

 

 

 

 

火吹竹は、今も人気のある道具で、

 

キャンプの時の火を起こす際にも使われている、素朴な竹筒である。

 

しかし、この火吹竹を吹いている母上は、昔のおくどさんで、隙間風もはいる土間で、煮炊きするために

 

火吹竹を吹いていた作者の思い出の中の母上なのだろうと思う。

 

凩が、耳元で、ぴゅうと音がして、遠い日に、寒いおくどさんの前で、火を起こすために、竹を吹いていた母を、吹いていた音や、風が吹き寄せる厨の体感までも思い出されたのだろう。

 

凩の音が火吹竹を思い出させ、火吹竹は、母の思い出に繋がっていく。

 

道具は、モノであるが、使う人の人となりを語るものだ。

 

作者は、寒そうだ、たいへんだなあと思いながらも、当時は、でき上がった温かい食事時まで、ただ眺めていただけだったのかもしれない。

 

今になって、体を吹き抜ける凩の寒さを体感しつつ、時を超え母上にかけたかった、言わなかった言葉を

 

胸の中でつぶやいているような気がした。

 

火吹竹を一本、手に入れてみたいような気持ちにさせた句でした。

 

 

 

 

もう星は落ちてはこぬか枯蓮

 

                    石戸   菜々花

 

 

 

春の浮葉から、蓮、蓮の花、蓮の実、敗蓮、蓮の実、枯蓮と、名を変えて、それぞれに情趣ある景を詠まれる蓮だが、枯蓮は、ほんとに精も根も尽き果てた荒涼とした景が詠まれることが多い。

 

が、この句は、残ったはちすの穴を星と見立てたのだろうか。星が落ちてきたように感じ、さみしさの感じられる句ながら、もっと星が落ちてはこぬか、と、蓮の

 

清らかだった季節も呼びおこすような、独特の枯蓮の夜を詠んだ。

 

破れて、枯れてしまった蓮に時々星が落ちてきては夜が深くなっていく。

 

星の輝く夜に、落ちてくるのを待つ枯蓮が、ファンタジックでありながら、なにか胸がきゅんとなりそうな

 

さみしさを伴い、寒い頃の夜の枯蓮が描かれ、心に深く残る一句だった。

 

 

 

 

 

 

 

ままごとのひとりふた役縁小春

 

 

 

                   三木   照代

 

 

 

また、こんな情景をみたいなあ、と思わせる。

 

家の縁側でしている幼い子のままごとは、良いものだ。

 

日が優しく降り注ぐ小春の日であれば、小さな幸せを見ている側に与えてくれる。

 

ご縁を大切にしなさいと、幼い頃に祖母から言われ、あまり意味がわからなかったのだが、このままごとのひとりふた役の中には、やがてたくさんの人と出会い、成長していくであろう幼い子に、良いえにしがありますように、という願いも込められているのだろうと思う。

 

幼い声で、さあどうぞ、とお茶碗を差し出し、今度は相手になりきって、ありがとう、いただきます、などという二役のままごとの中に、子の心の成長もかいま見ることができる。

 

言葉をかけ、食べものや飲みものをすすめ、お礼を言われ、そうして人は人と交わり、花が日光や水により育つように、人との縁を結びながら

 

大きく成長していくのだ。

 

子供のままごとのひとり二役をみて微笑んでいる作者の眼差しが、縁小春という季語により、さらに深いものとなり、味わい深い佳句となった。

 

 

 

 

 

 

谷原恵理子の一句鑑賞          (平成28年2月19日寄稿)

 

ビル街の暗き神域神農祭

 

                    寺杣   啓子

 

 

 

大阪市道修町の少彦名神社の例祭が名高いが、御堂筋と堺筋に挟まれた区域に、くす玉飾りや提灯が立ち、神虎をを求める参拝者で賑わう、大阪の一年の祭のとめの祭とも言われている。

 

 

 

びっしりと軒を並べた通りを逸れ、

 

ビル街のひっそりとした場所にいつの間にか、紛れこんでいた作者。

 

 

 

聞こえてくる賑わいは遠く、大阪の真ん中のビル街にひっそりとした場所を見つけてしまう。

 

健康、商売繁盛を願う人が犇めく

 

中、暗い場所、ひっそりと忘れられたような場所もまた神域である。

 

張子の虎の黄色をちらちらと目に入れながら、忘れられたような路地に及ぶ神の力を捉えた、作者の独特な眼に惹きつけられた。

 

 

 

 

三万の走者完走鳥渡る

 

 

 

                       田附   光映

 

 

 

秋はマラソン大会が多い季節。

 

 

 

好天に恵まれた、澄んだ空の下。

 

三万の走者が走り抜け、完走したのだ。

 

走るその日のために、筋トレをし、走り込み、体調を万全にしてのぞむマラソンは、走者それぞれにドラマがあるだろう。

 

三万という圧倒的な数の人が完走する時、見ていた作者も大きな感動をもらう。空は高く、南へ去る鳥、北から渡ってくる鳥、鳥たちもまた命をかけ、万全を期して空を渡るのだろう。

 

地を蹴る三万の足と、眩しい空に見る渡り鳥の取り合わせにより、スケールの大きな感動が伝わってくる。

 

谷原恵理子の一句鑑賞          (平成28年1月15日寄稿)

 

こつつぼを抱けばことんと落葉径               小倉   登代子

 

 

 

こつつぼと平仮名で書かれている。

 

ことんという措辞が哀しく、切なく響き合う。

 

ことんという音は、骨の音なのか、抱く人の心が、深い場所へ落ちた音なのか。

 

骨壺を抱く人が、落葉の径に立っている。乾いた落葉を踏む靴の感触は柔らかく、カサコソという音が足元から聞こえてきそうだが、作者の耳には亡き人からの最後のメッセージである、骨の音がことんと聞こえた。ことんという音がこんなに悲しく響くことを初めて知った。

 

 

 

手を掛けぬ方の小菊がよく咲いて                         酒井   秀次

 

こんなことがあるんですよね。

 

庭で育てている花達は、こんなにもというほど、手間や時間を掛けても、上手く咲かなかったり、かと思うと手もかけず放置された花が、野生児のように、のびのびと健やかに咲いてくれたりする。

 

作者のお庭には、大輪の菊も育てられていることだろう。

 

手を掛けぬ方、ということで、手を掛けられているのに、今イチなという、作者のもう一つの菊も見えてきて、野生児の方の小菊が、明るい日差しに生き生きと咲いている様子や、小さな感動が伝わってくる。

 

植物は、風や光、肥料などの条件だけでなく、植物自身が持つ個性と力がある。

 

小菊を見ていて、ちょっと癪なような気もしている作者である。

 

 

 

谷原恵理子の一句鑑賞         (平成27年12月17日寄稿)

 

幸せのどこかが欠けて秋灯

 

 

 

                      山田     佳乃

 

 

 

初秋。夏が通り過ぎて行くのはどこか祭を見送った後のような淋しさがある。

 

秋に移り変わる時の人の心には、騒いだ後のような微かな疲れと、喪失感のような小さな疼きがある。

 

幸せのどこかが欠けて、と、その心情を言い留めている。

 

何を失ったのか。何が足りないというのか。はっきりとは言えず、不満を言うのも躊躇われる、そんな微かな揺らぎを、主宰らしいデリケートな部分を詠み、非常に心惹かれるお句。

 

秋灯の小さな灯に、日常を走り抜ける主宰の、ある日の少し立ち止まるような、気持ち。

 

たくさんの人が、こんな日があるなと頷く、秋灯のお句でした。

 

 

 

雑草を絡めて真葛原平ら

 

 

 

                     岡田   文子

 

 

 

新古今和歌集     巻十一に

 

 

 

わが恋は松をしぐれの染めかねて

 

真葛原に風騒ぐなり       慈円

 

 

 

がある。

 

京都円山公園を中心とした青蓮院、知恩院、八坂神社などの地域を詠んだものと思われる。

 

真葛原を知らぬ人にも、その格調高い調べが伝わってくる。

 

 

 

葛は裏見草、馬藤、葛蔓、夏葛といろいろな種類があり、秋の七草のひとつでもある。

 

古くは、奈良吉野の山の民、国栖人から、くす、くずと呼ばれるようになったという。

 

かつて、この地一帯は葛で覆われていた野原だったのだろう。

 

時折は、京都に出掛けるものの、作者のように遠く時代を遡るような風情を感じるところまでは、なかなかいかない。

 

秋九月の風が渡り草の絡まる真葛原を平らとのみ描写し、古の野原が見えてくるようだ。風が吹き渡り、いっせいに葛の葉のひるがえるような景が格調高い。

 

 

 

 

朝市の百合の香りの売れてゆく

 

 

 

                              松本  松魚

 

朝市で売られる百合というだけで、清々しい空間を思い浮かべる。

 

 

 

夏の朝市は空気が澄み、爽やかな朝日に、新鮮な野菜を売る人と、それを求める地元の人達で活気があるのだろう。

 

野菜や乾物、果物を買い求める中にも、百合は気高い香りを放ち、人を引き寄せる。

 

買い物客も、たくさんの野菜を手に下げつつも、百合、いい匂いね、一つもらうわ、などと、褒めことばも添えて買って行く。

 

朝市の新鮮な野菜を買い、荷物を手に麗しい香りの百合を抱き、人は朝の幸せを味わうのである。

 

百合の香りがする、朝市の様子が、

生き生きと伝わってくる一句。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新涼の海を光りて跳ねるもの

 

 

 

                    御堂   御名子

 

 

 

この作者と同じ光景を海沿いに住む方はよく目にすると思う。

 

私も海が近い街にいるので、思いがけない近さで、あるいは遠くで、大きなものが、空に向かって飛び跳ねる光景をよく見る。光そのもののように見える魚は、生きる喜びに満ちているように見える。

 

新涼という季語には、何か新しいことに向かおうとする、新鮮な響きがある。

 

そのような再生された感じがする季節の新しい海である。

 

新涼の海は暑いながらも自然の大きな力によって、秋を感じさせる色にかすかに変化しているのだ。

 

 

 

作者の思いもまた再生され、遠く飛び跳ねるものを、地球の大きな光のように捉え、瑞々しい表現が

 

素敵だなあと思う。

 

 

谷原恵理子の一句鑑賞                    (平成27年11月17日寄稿)



ほらを吹き種を飛ばして西瓜喰ふ                         佐藤     美幸 


西瓜は大きい。一人で食べるイメージがなく、夏に帰省した子や、親類が集い、気のおけないお客さんがあったりした日は、西瓜の登場となる。


三角に切っても、大きく半月に切っても、西瓜はかぶりつき、種を取り、汁をこぼしつつ食べるのだ。


ほらを吹き、と言うのだから、日頃は慎み深い作者も、てきとうなほらを交えた自慢話しや夢を語り、笑い、お行儀も気にせず、種を飛ばし、喰ふ。


夏の日の気のおけない集いの一日を、豪快な描写で表現し、爽快感があった。


しかしながら、この懐かしい情景は、昭和のドラマの名手、作家の向田邦子を私に思い出させた。


テーブルの上で繰り広げられる、コメディと人間模様。親しい人たちとの歯に衣着せぬ日常の一コマが、どうしようもなくうまい放送作家だった。


この句にも、豪快でありながら、この時間を大切に思う作者の気持ちが伝わってくる。


なにしろ、西瓜の句の名手であることは間違いない。


頑なに回る昭和の扇風機                       近藤   智敏

頑ななのは、ご自身か、それとも

近くにおられるお年上の方なのだろう。

 

扇風機もそろそろレトロな味わいのある季語になってきて、今では羽の無いスタイリッシュな、枠だけの扇風機もあるご時世だ。

羽根にちょっとほこりもついたりして、芸もなく回る扇風機は、確かに昭和の時代のいろいろなシーンを思い出させる。

 

作者は扇風機の風にあたりながら、頑なな少し年老いた人にイメージを重ねつつ、この扇風機の風をこよなく愛しているのだろうと思われる。


氷菓噛むこの仕合わせのすぐに溶け                              梅垣   恭子

 

氷菓噛む。これはガリガリ君みたいな、硬いアイスだろうと思う。

そんな安価な氷菓は、口に入れると、夏の暑さを忘れさせ、瞬間的な仕合わせを感じさせてくれる食べ物で、しかも仕合わせは、すぐに終りを迎えるのが、氷菓の悲しい宿命なのである。

氷菓を噛む、というささやかな、ささやかな仕合わせを噛みしめる作者の心情がいいなと思う。

日常の仕合わせとは、はっとするような手応えでありながら、その瞬間はすぐに消えてゆく。

アイスの溶けてゆくはかなさと、人の仕合わせの無常感も伴いつつ、やはり、この瞬間を愛しく思う女性の可愛さを感じた一句だった。

 





谷原恵理子の一句鑑賞                    (平成27年10月10日寄稿)



空蝉となりどこまでも永らへる                  竹村 あきを


作者は空蝉をただの抜け殼とは思えず、まるで空蝉という形に転生したかのように捉えている。この夏、私も生垣にしがみついていた空蝉を見つけて、しばらく庭に置いて眺めていた。何日経っても、葉を離さずに、掴んだままの空蝉にまだ力が残っているような気がしてならなかった。


空蝉はうつしおみ=うつそみ=この世=現人に空蝉という字を当てた季語である。


深読みをすれば、作者に何か哀しい出来事があり、生き生きとした心が失われても、この世にこのような形でとどまり、永らえていくのだという覚悟のような心境ともとれる。


空蝉として転生したかのような、命なきものに、命を見る作者の心情をいろいろに想像してしまった次第である。


 


あれこれと風を試して扇買ふ                      梶本  佳世子


夏の扇売り場は華やかだ。女性が開く扇の色。次々と買うべき扇を、仰いでみては吟味している。試しているのは、扇なのだが、そこを風を試して、と表現されて、突然に、扇売り場に、何通りもの風がさあっと吹いたような、涼感があった。言い換えて、華やかな扇に、さらに風を感じさせた、遊び心のある大人の女性の一句である。


 


炎帝を先立ててゆく武家の庭                     吉村  玲子


暑い、暑い日の名のある武家の庭にいざ出陣の日である。


円虹前編集長玲子さんの、お庭への訪問は、まるで討ち入りのごとく威勢がよい。


暑い日に、ぐったりと萎れて行くのではなく、炎帝という強力なものを先触れとして、武家の庭に凛々しく入っていく。擬人化された、炎帝を味方につけて背を正してという姿勢に凛とした強い精神力を感じさせる一句です。


 


滴りの音や左手のピアニスト                       奥田  友子


滴りの音に呼び覚まされた感動。直感的な感動なのだと思う。


滴りの音を聞いている作者は、別の時間に聞いた左手のピアニストの音を同時に聞いている。


自然の素材から与えられた作者自身のあっという感動が、別の空間、別の時間へと飛び、そのことが一句に新しい命を与えているのだと思う。


音や、と強い切れを入れ、中八に思いが溢れる。あとは一切の説明はなく、左手のピアニストの、音の重ならない一音の澄んだ音色が胸に響く。


よけいな言葉は何もなく、滴りの音と、一心に響く左手のピアノの音だけ。静かな深い感動である。


 


 



谷原恵理子の一句鑑賞                    (平成27年6月15日寄稿)

春しぐれ過ぐ百幹の竹の色

                        木村  恭子 

春しぐれは京都の十八番である。

明るい春の空を潤すようにさあっと降り、すぐにやんだ。

その後に残る竹の色は濡れて青さを増している。

しぐれが通り過ぎた後の一瞬の深い感銘、百幹の竹がひたひたと幻想的な静寂をつくり、絵画性が鮮明な句。

京都嵯峨野を彷彿とさせる、澄み切った詠みぶりが、とてつもなく美しい。

 

たはむれに掴みし腕や鳥雲に 

                    阪西  敦子 

謎を残す一句。読者によいように読んでください、と委ねてしまった

感じがある。

たはむれに掴んだのは作者?

たぶん掴まれたのが作者。

でも、たはむれにというからには、ちょっとした男女の駆け引きめいた

様子が伺えるのに、鳥雲に、なんてその先も適当に想像してね、というなんとも、茫洋とした俳諧味のある句。ちょっと遠景に引いた大人ならではの、男女の描写が上手い!

作者の持ち味なのか、とぼけぶりに感心しきりだった。 

 

噛むやうに水飲む母や桃の花 

                   江本   節子

江本さんの母上は、少しお年を召して、大人である江本さんが、優しい視線で見ている母上である。

噛むやうに、が一句の眼目で、時間経過が、ゆったりとしている。

人間にとって、もっとも大切な水を噛むやうに飲んでいる母を見つめていることに、ずっしりとしたリアリティがあり、甘さを排除しているのに、慈しむ心が滲みでているのが、とてもいいなと思う。

桃の花が、おおらかにこの句を支えていて、優しい。


谷原恵理子の一句鑑賞               (H27.5.15寄稿)

振り返る歳月淡し春の霜

 

                       本郷  桂子

生きてきた歳月を振り返れば、大変だった。重い年月であったという感慨を持つのが、凡人であろう。

それを淡しと言う作者に、スタイリッシュな人生観を見る。

全ては、振り返れば淡いのである。

人生における作者の美学に魅了される。

淡いという措辞が深い。春の霜が美しい。

冷たい春の霜が、透明な春の日差しを受け、歩んできた道のところどころで、白く光っている。

いろいろなことを超えてきた作者にとって、全ては、もはや遠景のように淡くあるのだ。否定でも肯定でもなく、あるがままである。

潔く、心映え美しい句である。師と仰ぎたくなる人生観である。

 

 

風紋の残る寒さといふ歪み

 

                           誠一郎

 

金沢に旅した時だったと思う。砂浜で一度風紋を見たことがある。

広大な、砂に描かれた風の残す文様。

寒さといふ歪みが、一句の眼目である。

歪みは、作者の直感であるが、寒々とした浜に風紋が残る景を、体感により捉え、シュールな絵画のように再構築された、作者の世界に注目したい。

俳句は考えるものではなく、目で捉えたものが、体内に取り込まれ、作者自身にしか表現できない世界を形成する。

寒い地で生まれ育った私には、寒さが歪みという言葉で表現されたことに、深い共感を抱いた。

鳥取砂丘の風紋を見てみたい。どこか世界の果てのような、感傷的なものなど寄せつけない、寒い場所なのだろうなと思う。

 

 

駄菓子屋の賑わふ時間日脚伸ぶ

 

                    三好    立夏

 

懐かしい光景。幼い頃にも、思春期にも、町のどこか、よく慣れた道の途中に駄菓子屋はあった。

学校の帰り道、古い軒の低い店におばちゃんがいて、たいがいは一人で店を切り盛りしていたりする。口は悪いのだけど、なにか慕わしいような人だったりもして、小さな店は、子供達の元気な声で、握わっているのだ。

そんなかつてよくあった光景、もしかしたら今も脈々とどこかで、息づいている駄菓子屋さんへ、家路を急ぐこともない明るさの続くこの時期。町の駄菓子はぽっと明るい陽だまりのような場所だ。

日脚伸ぶが優しくて、子供たちの声が聞こえてきそうである。


 谷原恵理子の一句鑑賞  (H27.4.14寄稿)

  白酒やたはむれに見る運命線       山田 佳乃

雛祭りに、そっと形ばかり注がれた白酒であろうか。

佳乃主宰は、お酒をほとんどたしなまれないのだが、一口だけでも呑めば、とろりと甘い香気が、ほのかな酔いを誘ったのかもしれず、女の祭りにたはむれに、手相占いの話に花が咲いたのである。華やかさのある雛祭りの座のふいんきを伝えつつも、下五に運命線という、どきりとする強い言葉で、中七までの甘さを抑え、鮮やかに運命線を浮き上がらせた。

一見たおやかで無邪気とみせつつ、主宰が時折見せる男気のような、芯の強さを感じ、とても心惹かれる一句

 

 

 

言葉みな過去形となる懐手                  佐塚  美恵子 


話題は、過去の話ばかりとなったある冬の寒い日のことである。

 

冷たくなった手を知らず知らず己が懐へ入れると、なぜだか気持ちは過去へと遡っていく。

 

思い出とは、貯金のようなものである。人をつくっている地養と言ってもよいかもしれない。

 

貯金があればこそ、0になった時も、それを取り出し切りくずしつつ、辛い時を凌げると思う。

 

自分の手を自分で温めるように、言葉は過去形ばかりでも、決して作者の心は後ろ向きではなく、じわじわと力を貯めて、明日に繋げようとしていて、滋味の感じられる句である。

 

 

 

 

 

寒紅をひいて強くもなき心                    三好  ようこ 

 

化粧をする時の女心を、ポロリと一人ごとのように詠んだ一句。 

 

寒紅は強い色であるが、逆に自分は、強い心じゃないなあ、と鏡を見ながら思う作者。

 

化粧の下には、いつも嘘が隠されている。

 

顔色の悪い日には、ほんのりと桜色の頬紅を。

 

元気がない日に目元をきりりとさせるアイラインの黒。

 

そして、たいして強くもないのにね、とつぶやきながら引く唇の寒紅。強さと遠いところにいた作者の唇に引かれた寒紅は、鏡の中でくっきりと赤い輪郭で、作者を別な女に見せる。化粧に託す女心は、嘘をついて自分をまず騙すことから、始まる。







国光六四三の一句自由鑑賞(H27.3.1寄稿)

 

 時雨るるや聖堂に灯のゆきわたる 猿渡章子

 円虹三月号雑詠から。作者は大牟田の人。

時雨の語源は「過ぐる」とも、「し(風)くるう(狂)」とも云われ、初冬の不安定な空模様を云う。山の向こうから黒い雲が現れたかと思うと、俄かに風が吹き荒れ、冷たい雨が降りしきる。かと思えば、また急にやんでしまう。万葉の昔から、日本人の心に深くしみとおる、美しい詩語の一つである。

聖堂は、日常の暮らしと神の在す精神界とをつなぐ、祈りの場である。キリスト教の教会堂を思い浮かべる人も少なくなかろうが、東アジアの中国文化圏では古来、聖人・君子を祀る宗教施設のことを云う。たとえば、各地に建てられた関帝廟や江戸の孔子廟、湯島聖堂などがよく知られている。

掲句の灯は、蝋燭の灯火であってほしい。聖職者の手から移されたあかりが揺らめきつつ、徐々に聖堂全体に行き渡るとき、寒さに震えていた人々の心にも暖かな光がともるのである。日本人の宗教観とはこの灯明に象徴される身体感覚なのであろう。


  谷原 恵理子の一句鑑賞  (H.27.2.9寄稿)

火祭や人も焔も揺れやまず 

                      安田 徳子

火祭のラストシーンなのだろうか。

町中が篝火に埋め尽くされるという火祭。闇の中に呼ばわる声、神事の高まりが、渡されていく焔と共に人を酔わせる。見ている作者自身も高まりの中にいて、クライマックスが終わってもまだ、揺れ動く焔に魅せられているのだろう。揺れやまず、で見事に終わろうとする祭の時間経過、闇を際立たせる焔と人が一体となる夜を詠みとめている。


ばった飛ぶ草より草の色をして

                         大杉   恵子                

虫の擬態には時に周囲にこれほどまでに、そっくりになれるとは!とびっくりする時がある。

あんまり、草にそっくりなものだから、草が飛び出したのかと思った作者。そんな小さな驚きが感じられる句である。

時には葉脈の筋までついた草そっくりのばった。瑞々しい緑の葉から飛び出した小さな命が輝いている。

 

先を行く人追はずゆく秋日和 

                       金沢    正惠

休日。好天の秋の一日。長年連れ添った夫婦かもしれないし、気心の知れた友人かもしれない。はじめは一緒に歩いていた道も、それぞれに楽しみながら歩いているのんびりした気分。少し距離があっていい。麗しい秋の日を親しい人と少し離れて歩いている、広やかな気持ちをさらりと詠み、大人ならではの楽しい一句。


あきらめて力抜くとき瓢の笛

                            今村  征一 

いすのきの葉に虫瘤ができて、虫が去ったあとの大小の穴を吹いて遊ぶ

ひょんの笛。

びっくりするほどに軽いのに、殻は硬くて、ひょろろと鳴る。自然の為すことは、不思議だ。

優しく細くゆっくり吹かないと、この笛はならない。

作者も何度か鳴らして、諦め気味に、力を抜いて鳴らしたら、鳴ったのである。なーんだ、これが極意かあという作者の声も聞こえてきそうだ。子供でなくともひょんの笛は吹いて、癒やされるような気がする。

力抜くとき、という表現にそれまで鳴らなかった、あれこれ工夫した

ことも見えて、実に上手いなあと思う句である。ひょんの笛。大切に伝えたい季語である。



 


国光六四三の詩句発句評Ⅹ(H27.1.28寄稿)

 

 この雪にやがて埋るる句碑ならん 三上愛子

 円虹二月号雑詠の巻頭。作者は弘前の人。寺社の庭や観光地の散策路に句碑があれば愉しい。高名な俳人で句碑建立を拒みとおした人がおられた。俳句に生涯を賭けただけに、一句に執したくない気持ちなのだろう。所詮やがて埋れてしまうものだから。

 

 大空を背中に負うて蓮根掘る 木村英一郎

 円虹二月号雑詠から。はすねほる作業は、泥まみれの重労働である。長時間かがみ込んでいると、腰も痛んでくる。それでも、正月料理で美味しいレンコンをいただくためだ、途中で止めるわけにいかない。大空を背負って働く農人へ贈る、労働賛歌。

 

 落葉掃き気持ちの整理つきにけり 椿野美子

 円虹二月号雑詠から。何のため俳句を詠むのか。この質問にうまく答えられない。ある人が、日々の屈託を晴らすためだと語っておられた。それも動機の一つとなろうか。この句の場合、詩情やよし。中七下五は慣用表現で、まだ、詩語に至っていない。


国光六四三の詩句発句評Ⅸ   (h26.12.28寄稿)

 

 手触りのなべて懐かし冬支度 大村康二

 円虹一月号雑詠の巻頭句。冬仕度は秋の季題。タンスの洋服、窓のカーテン、物置のストーブ、庭の道具、秋大根の漬物。一つ一つの手触りがなにやら懐かしくも、厳しい冬を待つ気分にさせてくれる。中七の畳みかけるようなnaの韻律が効果的。

 

 放心のごと下がりゐる烏瓜 瀧積子

 円虹一月号雑詠から。放心に二つの意味がある。心奪われてぼんやりすることと、心にかけないで安心すること。この句の放心は後者か。薬用にも食用にもなる烏瓜は、晩秋赤い実をぶらさげる。烏が好んで食べるらしい。ちなみに烏瓜の花は夏の季題。

 

 秋風に吹き返されるホームラン 岡野安雅

 円虹一月号雑詠から。あっけらかん。こういう作品を鑑賞で採りあげちゃ、いかんいかんと思いながら、何度見返しても、この句のところで目が留まってしまう。球場の歓声と溜め息が聴こえてくる。現在形であることにも注目されたい。


谷原 恵理子の一句鑑賞(H26.12.12寄稿)

日暮待つおわらの町の秋暖簾

 

                             水野  繁勝

 

おわらの風の盆はあまりに有名な祭で、一度は観てみたいといつも思っている。この句が、そういう願いに拍車をかける。

日暮待つに、作者の祭が始まる前のほのかな期待が込められている。

一人でおられたのだろうか。

祭の季語を使わずに、秋暖簾としたことで、しっとりと始まろうとする風の盆に相応しい夕方の趣が描かれている。


同じものいつも供えて秋彼岸

 

                          水谷  文枝

目にとまる個性的な言葉、季語、そのような作り方とは、全く逆の方向の、日常の中のさりげない、小さなさざなみのような心情を詠んだ句。

昔、日本の家にはどの家にも、仏壇があり、朝はまず仏壇にお線香をあげ、祈り朝が始まったものである。

そして秋彼岸には、祖母と一緒にお団子を持ってお寺に、お参りしたものだ。故人の好きだった、栗おこし、羊羹、気張らないお菓子や、絵ろうそくを持って、女ばかりでいつも、供えものを用意した記憶が蘇る。

毎年、巡りくる秋の彼岸には、同じものをお供えし、丁寧に暮らす作者の暮らしぶりがうかがえる。

亡くなった人をしのびつつ、作者の心も深まっていく秋へと向かうのだ。


国光六四三の詩句発句評Ⅷ  (H26.11.30 寄稿)

 

 すいつちよの草の匂ひをつれて跳ぶ 黒川比沙子

 円虹十二月号雑詠巻頭の一句。すいっちょはバッタ目、緑色の昆虫で触覚が長い。鳴き声がジースイッチョンと聞こえ、馬子が馬を追うかけ声に似ているため、馬追虫の名がある。作者は鳴き声でなく跳ぶ姿に注目し、それを草の匂いでイメージ化した。

 

 電線を五線譜にして月見かな 竹尾公秀

 円虹十二月号雑詠から。中秋の名月を鑑賞するつもりで空を見上げたら、無粋にも電線が掛かっていた。その組合せを五線譜に見立て、あくまで風流をあじわうつもりでいる。作為を感じないわけではないが、たまにはこんな句遊びも愉しいものだ。

 

 故郷を離れし父の墓洗ふ 中村高士

 円虹十二月号雑詠から。盆が近づくと父が墓石を洗っていた。その父の姿を思い出しながら、いま自分が先祖代々の墓を洗う。この句の場合、父だけが眠る墓かもしれない。自分は父ほど丁寧に生きてきただろうか、そんなことを考えながら、苔を掃く。


 国光六四三の詩句発句評Ⅶ  (H26.10.29寄稿)

 

 

 

 川面いま祈りの道に流灯会 岡悦子

 

 円虹十一月号雑詠の巻頭句。流灯は盆行事の一つで、海や海に近い幅の広い川へ、火を入れた灯籠舟を流す。精霊流しから変化したものらしい。川面という詞に、不思議な魅力を感じる。水面の上と下にはまったく別の世界がある。そうして流れている。

 

 

 

 ふところに風の残れる端居かな 藤本たける

 

 円虹十一月号雑詠から。蕪村に「端居して妻子を避る暑かな」の句がある。日本最古の漢詩集『懐風藻』のタイトルは、六朝の遺「風」を「懐」かしむの意味らしい。作者の場合はどうであろうか。ただの酔いざましかもしれない。されど良句。

 

 

 

 星月夜あかり消えゆく学生寮 松井嘉代子

 

 円虹十一月号雑詠から。星月夜と学生寮、二つの言葉だけで、じゅうぶん詩情を感じさせる。寮はきっと高台にあるに違いない。なお、下五句に六音や七音を置いてはいけませんと、たいていの入門書に書いてある。この青春句の場合は、許されたい。

 

 

国光六四三の詩句発句評Ⅵ  (H26.10.1寄稿)

 

 

 

 ふる里の山河引き寄せ草矢打つ 橋本佐智

 

 円虹十月号雑詠の巻頭句。遠近を生かしたカメラワークがいい。しかも、引き寄せて打つ、力わざである。草矢はススキやカヤの葉を裂いて矢形に仕立て、指に挟んで飛ばす子どもの遊び。弘子前主宰に「木洩日の隙間を飛んできし草矢」の句がある。

 

 

 

 夏雲やオーバーヘッドキックの弧 伊志嶺亮

 

 円虹十月号雑詠から。十七音中十音がカタカナである。外来語を用いた句は、あまり成功したためしがない。この句の勝因は末尾に措かれた弧、一音の鮮やかさであろう。碧い海と空、白い雲、そしてシューズの弧の映像も美しい。作者は宮古島の人。

 

 

 

 画用紙をはみ出している雲の峰 山下香澄

 

 円虹十月号雑詠から。絵をかく人に二種類ある。紙からはみ出して描ける人と、はみ出せない人。画用紙の後ろ側に、入道雲と山の景が見えるようだ。類想句もありそうだが、素直さがこの句の生命線である。なお、新かなづかいが少し気にはなる。

 

 

国光六四三の詩句発句評Ⅴ  (H26.9.1寄稿) 

 

 山も日も植田に溺れをりにけり 青山悦子

 

 円虹九月号雑詠の巻頭句。溺れの語で、田の水面に映り込んだ、入り日と山の景色を鮮やかにとらえた。ただ上五中七だけで意味は通じ、詩句として成立する。現在進行をるに強い詠嘆けりをつないだ下五の用い方は、案外むつかしい。作者は広島の人。 

 

 長崎忌長崎の地の在る限り 田中量子

 

 円虹九月号雑詠から。伝統俳句は政治性だけでなく、社会性、時事性をも敬遠する。日常些事を重んじた虚子の影響だろう。敗戦から七十年近く経ったが、それでも原爆の惨事は忘れてならないものだ。長崎人としての強い使命感が下五に溢れでた。 

 

 青芒杞陽師の軸掲げたる 畠中久惠

 

 円虹九月号雑詠から。京極杞陽は但馬豊岡藩主の末裔で、ホトトギス同人、俳誌『木兎』主宰。代表句に「青芒歴史はさほど遠からず」がある。若かった弘子前主宰は大阪月例会に参加し、杞陽から指導を受けた。そんな事情を踏まえた挨拶句。

谷原 恵理子の一句鑑賞(H26.8.9寄稿)

 

あご飛んで海の群青絞りけり                   真鍋  孝子 

 

島根や九州で夏を告げる魚、飛魚をあごと一部の地域で呼んでいる。

 

空中は50キロから70キロのスピードで、高さは3メートルから5メートルに達し、100メートルくらいはあたり前に飛ぶという。

 

水上に飛び出し、胸 びれを広げて滑空する時、滴り落ちる飛沫を群青を絞りけりと表現された。海の青さ、煌き、飛ぶさま一瞬にして捉えた、心すく、清涼感のある一句。

 

 

音たててこぼれてきたる桐の花                                   興嶽

 

初夏を彩る最も美しい木の一つである桐。日本人にとっては大切に植える木、育てる木である。娘が生まれたら、今も桐を植えるという風習が残る地域もあるらしい。

 

しかし背の高い所に咲くので、その花は人目に触れることが少ない。道に落ちてきた花に驚き見上げれば、その高さゆえに音を立てて落ちてきたように作者には感じられたのだろう。不意に散り落ちてきた桐の花の薄紫に、香に卒然と立ちつくす驚きが伝わってくる。桐の花の絶唱を聞くかのような景が美しい。

 

 

 

初夏や母の前髪剪りそろへ                  高橋   純子 

 

母と娘の平凡な初夏の一日。調べも良く、優しい雰囲気の一句。

 

そろそろ暑くなってきたし、お母さん、前髪を切ってあげようか、と作者が問えば、縁側か椅子にちょこんと座り、子供のように安心しきって前髪を切ってもらっているお母さま。年をとると少しづつ子供に帰っていく。昔は娘の髪を切りそろえてくれた母の髪を今は娘が切りそろえる。そんなさりげない初夏の情景が、母娘の辿ってきた年月と共にしっとりと描かれた佳句。

 

 

 

 

 

 

    国光六四三の詩句発句評Ⅳ   (H26.7.30寄稿)  

 

 一瞬に目高の向きの揃ひけり 桑島正樹 

 円虹八月号雑詠の巻頭句。古火鉢を玄関先に置いて水を張り、メダカを飼っている。餌をやろうと不意に近づけば、彼らは一斉に水草の下に隠れてしまう。まもなく餌に気づいて、浮かび上がってくる。すっきりとした句姿、映像も美しい。

  

 影もまた円かに涼し伎芸天 福島良枝 

 円虹八月号雑詠から。奈良秋篠寺での吟行詠。単純素朴な本堂の内部は土間床でうす暗く、横一列に配置された数体の尊像の端に、我が国唯一の伎芸天が立っておられた。多くの人が涼しと感じ、灯影に目をとめる中、作者は円かの語を得た。

  

 田植すみ一安心と床につく 片山さゑ子 

 円虹八月号雑詠から。取合せも比喩もなく、何の技巧もない。日常語だけで構成された、ただの作文である。ああそう、良かったねと挨拶を返すほかない。しかしながら、鑑賞者の感慨とは違う、農民の詩情が、この句にはある。 

 

国光六四三の詩句発句評Ⅲ    (H26.7.2寄稿) 

 

 嬉しくて悲しくて漕ぐ鞦韆を 永瀬千惠子

 

 円虹七月号雑詠の巻頭句。古くはブランコをしゅうせんと云い、こんな難しい漢字をあてた。春の季題。平明な良句の条件は、まず、読みやすいこと。次に、正確に意味が伝わること。そして、詩のリズムと心(余韻)があること。下五の倒置が生きた。 

 

 束の間の深川暮し浅蜊飯 本郷桂子

 

 円虹七月号雑詠から。江戸深川は漁師町で、庶民はアサリ汁のぶっかけ飯を食べた。元禄時代、師の不在を承知のうえで芭蕉庵を訪ねる門弟がいたと云う。いま、隅田川沿いに芭蕉記念館が建つ。遠慮がちな上五が奥床しい。作者はわが句会の先生。 

 

 花珈琲見に行く二人日曜日 島袋祐子

 

 円虹七月号雑詠から。作者は那覇の人。コーヒーノキの花は句材として珍しく、季題として面白い。沖縄では花見もできるそうだ。白く小さな五弁の花で、ジャスミンに似た香り。花の寿命が二日程度と云うから、見逃してはならぬ。

 

谷原 恵理子の一句鑑賞  (H26.6.19寄稿)

高舞ひの鶴引く気配ありにけり                    石橋    武子 

陸に生きる私たち人間が空を見上げる時、原始的な感情がわき起こる。

鶴と遭遇するために出かけられた作者が見上げた早春の空はまだ淡淡とした浅葱色の空だっただろう。

早春の空に高舞ひして、いよいよ北へ飛び去る鶴の群は、それだけで雄大で美しい。自然の壮厳さを感じ、生きることの敬虔さに打たれる。

もはや日本の一部でしか見ることのできない鶴は、ここで越冬し、また遥かな北へ飛び去る。円を描きつつ上昇する様を、引く気配ありにけりと言い、目をこらし、空をみつめる作者の視線を感じる。鶴の高い飛翔が眩しい。

 

雛調度鏡は今の世を写し                    藤井  啓子 

 

古い由緒ある雛なのだろうか。時を超え残る雛調度は古びていても、鏡ははっきりと今の世を写している。クールな視線である。

 

お雛様といえば、雪洞や衝立に目がいくが、鏡に目を向けた作者。一味違う味わいを感じる句。

娘の幸せを願う桃の節句に、元々の払えの意、鏡が持つ呪術性、信仰の対象としての鏡の存在が、大きく写し出された感がある。古い雛の鏡と今の世、何か凄みのある神秘的な一句。        

 花衣たたみ終わつてから泣かむ                   石戸  菜々花 

 

臨場感あふれる句である。意味深である。花衣をまとったからにはどなたかと会い、花を見に出かけたのだろうと思う。そして、何か悲しいことがあったのだ。

 

女の着物というものは、脱いだあとに手入れをしなければならない。洋服のように、何かあったからといってぽんとその辺に放っておけない。泣きたい事があったとしても、畳まねば女の努めは果たせず、大人の女はあたり構わず無く訳にはいかないのである。

 

着物を着る時、昔も今も女は覚悟を持って着る場面がある。喪服がそうだし、振袖もそうだ。しかし、花衣は、花の頃に純粋に楽しみとして身を飾る着物だ。耐えて、畳む作者に何があったのでしょうか?気になります。作者のドラマ性と女性らしさがとても可愛らしく感じられ、引き込まれた一句。

 

 

 

 

 

 国光六四三の詩句発句評(二〇一四年六月)(H.26.5.30寄稿)

 

 本堂の燭影およぶ雛飾 大谷櫻

 円虹六月号雑詠の巻頭句。この作者の句には蕉門云うところの「格」がある。家々で役割を終えた古雛が一堂に集められ、燭の影すなわち仏の光を浴びている。大津市の天台系西教寺の人形供養は、阪神淡路大震災をきっかけに始められた、と聞く。

 

 写経して善女に非ず木の芽時 渡辺光江

 円虹六月号雑詠から。春は木々がいっせいに芽吹く陽気な季節である。一方で、寒暖の差が激しいため、人は体調を崩しやすく精神が不安定になる。そんな俗説を逆手にとった。わたし善女なんかじゃないわとうそぶきつつも、仏の教えを希求する。 

 

 三方は入る人無く春炬燵 小林光子

 円虹六月号雑詠から。うまい句とは云えないかもしれない。しかし、一読ドキリとした。孤独を表現するのに、こんな方法もある。春炬燵の季題は、一筋縄では行かない。明るく艶やかな雰囲気だけではないのである。この句、俳諧味も隠されている。

 

 

 

 

谷原 恵理子の一句鑑賞  (H26.5.12寄稿)

 

鶯やほのぼの明ける吉野山                   田中   祥子

 

 春の訪れの遅い吉野山の夜明け、明けていく山を情感豊かに真正面から詠みあげた堂々とした一句。

 雪の頃から桜へと移り行く吉野山の桜の頃の少し手前の春まだ浅き頃だろうか。ほのぼの明けるの中七が素晴らしいと思う。

 今年行きたいと思いながら、ついに春の吉野山に訪れることは叶わなかったが、この円虹一ページめの一句めに読んだ吉野山の句で、吉野山に登り遥かな空から降る鶯の声を聞いたように感じた。

 ほのぼの明けるが、女性の優しい視線と、真っ直ぐに対象を捉える確かな心の強さを感じるのである。古来、西行やたくさんの俳人が詠んできた吉野山をためらいもなく、真っ直ぐに詠んだ平明さにこそ、この作者の揺るぎない力を感じることができる。春から夏へと移りゆく希望の季節に鶯の季題が、吉野山の裾まで響きわたり、広がりを感じさせる佳句。 

 

貫之のかなをちらして筆始                    若林   柾矢 

 

 全く心憎いばかりの技を感じさせる句ではないだろうか。

 かなをちらしてという平仮名表記、効果を存分に生かして筆始の新たな年へのきりりとした空気感。

 貫之は土佐日記の作者として、古今集では仮名による仮名文化を立ち上げた歌人である。知的な遊びごころを織り込みつつ、何気なく使うかな文字に美を見いだし、筆始めとする作者。優雅にして人生を楽しむ達人の感あり。

 

 

 

  国光六四三の詩句発句評(二〇一四年五月)(H.26.5.1寄稿)

  

 新雪を踏んで三時の糶に急く 今村征一

 

 円虹五月号雑詠の巻頭句。作者は金沢の人。競り市に参加するため、道を急いでいる。午前三時、昨夜来の積雪で、町はすこし明るいものの、新雪ゆえになかなか前へ進めない。「踏んで」の撥音便に臨場感がある。さりげない下五の表現は名人芸。

 

 立春やマカロン買ひに街に出る 生嶋わこ

 

 円虹五月号雑詠から。立春は二月四日頃。暦の上では春ですが、などという慣用句もあるが、むろん本当は真冬である。おじさんはコンビニ店でホカロン(簡易懐炉)を買い、若い女性はパティシエのいる店でマカロン(洋菓子)を買う。

 

  もんどりを打つアルプスの雪解水 溝上喜美子

 

 円虹五月号雑詠から。別の句でマッターホルンを詠んでおられるから、舞台は日本アルプスでないらしい。外国詠は季節感が異なるため難しいが、本句では春の季題がうまく生かされた。とんぼ返り、宙返りするかの如く、雪解けの水がほとばしる。

 

                

 

谷原 恵理子の一句鑑賞    (H26.4.18寄稿)

 

馬橇は重し原野の開拓史

 

                           土井  直治

 

 明治まで、ほとんど手付かずだった北海道は、開拓使が置かれるまでは、原始そのものと言っていい広大な原野であった。

 

日本近代化のための資源、石炭、木材、硫黄などがこの原野に無尽蔵に眠っていたのだ。

 

鉄道を敷き、道庁を作り、インフラ整備が進められるなか、もっとも活躍したのが馬橇でそれは何百という馬橇が原野を行き交い、開拓史は始まったのだ。

 

今も美しい建物がある開拓の村が残されていて、観光客が馬橇に乗ることができる。目に痛い程の雪景色を馬橇に土井さんは乗ってみたのだろうか。シャンシャンと鈴を鳴らし走る馬の息も人の息もまた白い。空はあまりに広く、鈴の音は美しい。

 

しかし、男達のロマン、開拓のスピリッツといった開拓史の裏には、壮絶な風土との戦い、困難があった。それを重しと土井さんは簡潔に表現されている。

 

気の遠くなるような、広い厳しい原野を馬橇が行き交った時代を開拓史と一言で言うにはあまりに重い。近代日本の幕開けとその原野の広がりを感じさせる大きな句だ。

 

 

初暦めくりてパリの街の中

 

        

 

                        生島      わこ

 

   生島わこさんの俳句、好きです。

 

一つ同じ会に行っていて、新年の会でこの句を一番好きな句に選びました。

 

お年は多分上なので、あまりくだけたことは言いにくいのだけど、やはり初学の頃の勢いがある気がします。かくいう私は俳句をはじめて、たった五年。

 

俳句の調べとか、セオリーを超えて俳句への飽くなき愛をこの句に見るのです。

 

人が暦というものを最も意識するのは一月だろう。真新しい暦の前に威を正すかと思いきや、快楽でいっぱいのパリの街中へすうっと心がいってしまう。それもまた平成という時代を生きる私たちの正直な気持ち。今を生きる気持ち。ぴりりと暦を破ると美しい日本の歳時記を超えて、パリの素敵な街角を気楽に歩く自分がいる。重厚なお正月行事や、素敵なおせちも無視して、たった一人でパリの街中にいる。フレッシュである。今を生きている気持ちがこの句にはある。

 

かくいう私も毎年新年には、今年こそはパリに行けますようにと願ってしまうことを白状しよう。

 

谷原恵理子の一句鑑賞   (H26.3.25寄稿)

橋渡る向こうに別の寒さあり                      藤井  啓子

今日一日作者は寒い道を歩いてきた。風景の色さえ失せてしまいそうな、靴底の冷えるコンクリートの街なのだろうか。しかし、橋を渡ろうとして、ふと見れば橋の向こうに別の寒さがあると言う。
街中を抜け、橋をわたれば、全く違う風景が広がっていることがあるが、ひっそりした冬木立の公園か、美術館の庭園なのかもしれない。
寒くてたまらない時、行けども行けども寒くて、そのせわしないような、追われるような、心情。
しかし、この句には情けない女は描かれてはいない。
橋渡ると言い切り、寒い場所から橋を渡り、かつかつと靴音を響かせ
る音も聞こえてきそうな、厳しいある冬の日の時間が描かれている。また別の寒さへと歩いていくきりりとした表情の作者がかっこ良いなと思う。


言葉もう紅葉に負けてをりにけり                        海輪  久子

紅葉を見た時、まさにこの心境を味わう。何をいえば、その美しさを言えるのかと苦吟するのであるが、ばっさりと言葉は負けていると海輪さんは言う。うまさ、大胆さ。
切り口が瑞々しく、やられた!と思ってしまう。
自然の圧倒的な美の前に、言葉もなく、ただみとれ、身体は空っぽになってしまう。言葉は追いつかず、今まで見た紅葉の中でも一番美しかった紅葉を、紅葉の間から見える空を、はらはらと散る時の時間を、思い出す。美しいと一言も言わず、紅葉の美しさに誘なっていく大胆な一句。

谷原恵理子の一句鑑賞  (H25.12.9寄稿)

遠花火手のひらほどの空こがす             山田  美智代
 大きな目前の花火の前で、人はおもわず歓声をあげる。わくわくし、見とれ興奮する。
だが、遠花火を見るときはしんとした気持ちになる。楽しいことから、遠ざかっているような少し淋しい気持ちとともに、手のとどかない遠花火を眺めるのだ。
遠くから、ヴェールをかけたように聞こえるトンという乾いた音の花火があがり、小さな空を小さな火がこがす。その空を手のひらほどと言う時、作者の切なさが伝わってくる。
小さな空に重ねた記憶は、激しさや生々しいものではないのだろう。
けれども手のひらほどに小さくなっても、時々作者の胸のなかにも、遠花火の火が乾いた音と共に明滅するのだろう。

 

霧流れ古い映画のやうな街                    海輪   久子
ここはどこかしら?霧が流れる街はまるで見知らぬ街でいて、ほんの少し灯されたビルの入口は見覚えがあるような。ついと横切る猫がすぐに消えた細道も知っているような。
なにもかも霧に包まれ、シルエットは曖昧になり、現実感を失い、時間に置き去りにされた街はまるで古い映画のなかの街のように見える。
流れると言ったことで、霧だけが動き、霧の中に立ち止まっている作者が見える。明け方の短い夢のなかでさまよっているような、古い映画のセットのなかに佇んでいるような、そんな既視感を古い映画のやうな街と表現され、なんともドラマティックな一句。さまよう作者にはトレンチコートが似合いそうだ。

 

露消えて又醜草に戻りけり                     梶本  佳代子
露をいっぱいにおいた草は美しい。
朝日にきらきらと光って、自分も生まれたてのような新鮮な気持ちになる。作者が通った道を、又時間をおいて通った時、美しかった草がただのうっとおしい醜い草に戻っていたという。
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音は短い。言えることは限られている。しかしこうしてその裏に、同じ草を2回見たという時間の経過を又戻りけりと書くことにより織り込むことができる。
一度めは、美しいものを見つけた喜び、二度めは露という飾りを取り去った草本来の姿にがっかりした作者の心が、醜草という強い表現で表される。作者は一字一句たりとも無駄にはできぬ17文字を丹念に磨く。
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文字の広がり、可能性を改めて感じさせてくれた一句。

 谷原恵理子の一句鑑賞(10月16日寄稿)

吾輩はピーターうさぎ雲の峰               津田   多惠子

ピーターラビットは、英国の誇る絵本の古典で、誰もが一度は目にしたことのある、美しく淡い水彩による絵柄で知られたうさぎ。はらはらどきどきする楽しい物語だが、人間に捕まえられそうになったり、ピーターのおかあさんが、一家を支えるためにやけにリアルな苦労をしたりと、自然界の厳しさも描かれているのがやはり英国的である。
さて、津田多惠子さんのピーターうさぎはちょっと厳しい絵本の中から飛び出した。日頃の切ない苦労もぽんと脇に置き、"吾輩は"とまるで偉そうな英国人のように威張って天に登ってしまうところが楽しい。むくむく湧きのぼる大きな雲のピーターうさぎは、英国に旅行に来た津田さんの目に、ちょっぴり偉そうに映ったものらしく、のびのびと大きな空の中にいる。
彼の国を訪れた喜びと、夏の英国の田園風景が、ピーターうさぎの幸せな雲となり描かれた。いつも透明感のある作風の作者ならではの句であろう。私もピーターラビットの大ファンなので、いつかは青い上着をつけたピーターをイギリスの空で見てみたいものだ。

 

古扇明治の見ゆる破れ穴                              乾    北星

これはまた古い扇。はたしてご両親の持ち物であったか、家の片付けの途中で引き出しの隅にみつけられたのか。小さな穴。日常的に使われていたからこそ穴があいていたのだと思う。作者は小さな破れ穴から、全くちがう大きさの明治時代へと、遥けき場所へと思いを移す。覗いているのは、小さな古扇の穴だ。
北星さんはきっと一人でいても、退屈することがないのではと思う。
小さな穴から、大きな時空を越えてしまえるほどの旅の達人だから。
破れ穴とぞんざいに言いながら、古い扇を使われていた人と、重なろうとする作者の照れくさそうな優しさもまたほの見えてくるのである。

 

葉脈に滴七色かたつむり                         新家    月子

  何やら理系の匂いがする句。
葉脈と言ったことで、葉はぐうーんと伸びて拡大され、滴の光の中にさらに七色の可視光線をとらえる。見つめる作者の高精度な眼が虫眼鏡のように細部を写し、観察する楽しさが伝わってくる。
俳句を詠む時人は知らず知らず好きなものを選んでいる。作者はただの葉っぱから、美しくその体を造る葉脈までをたどり、硬質ともおもえる観察で、光の七色の波動の中にいる有機的なかたつむりを見つめる。
いつか月子さん本人から昆虫を詠みたいと聞いたことがあるが、この昆虫は眩しいようなかたつむりだ。
硬質なレンズのような眼で捉えた七色の光の先にあるかたつむりの生命が、滴に濡れて輝き出す。

 

谷原 恵理子の一句鑑賞(9月16日寄稿)

かたつぶり目玉の先で考へる           竹村 あきを

もちろんかたつむりに考えるべき頭脳はないが、作者は目玉の先で考えるというふうにかたつむりを"つかまえた"のです。
かたつむりの目は2対の触角の長い方の先端で、明暗を察知します。たったそれだけの器官を使って生きているかたつむりには、なぜかほのぼのとしたおかし味があるような気がします。
おっ!明るいぞ、月明かりだ。こっちにはいい若葉がありそうとか。ちょっぴりしかない機能でもって生きるかたつむりの世界は平和でのんびり。目玉の先で考える事柄は明快かつシンプル。お日さまと月と若葉のいい匂いと恋のことでしょうか。
してみると私も長きにわたりかたつむりほどのことしか考えていなかったかも、などと思ったり、[なるほどね」とおりすぎてから、またもう一度戻って味わいたいと思う句ではあります。

 

時鳥啼き旅心捨てられず                  丸川  越司

始めから、諦めているので、時鳥の声にどうにも諦められずにいる作者のため息のような句です。
これは諦めているところがよいです。そこへ時鳥が啼くものだから、風に爽やかな薫りもするし、麗しい陽光もあり、緑色に染まって山辺を歩いたらなぁ…とまた諦められない旅心がわき上がってくるのです。
きっと判こを押さなければいけない書類が山積みだったり、会わなければいけない人がいたり、弛んだドアの蝶番を締めたりしなければならないのかもしれません。
旅心を捨てられずにいる作者のお宅の開いた窓から、いっせいにぱっと開かれた時期の季節感がよく出ています。

谷原 恵理子の一句鑑賞(8月7日寄稿)

提灯をばりばり伸ばし祭来る                橋本  絹子

今月の佳乃先生の海光抄のテーマはオノマトペだった。
自分ならではのオノマトペを感じ取れたら俳句の可能性が拡がるという文章を読んだあと、この俳句を読み先生のおっしゃる独自のオノマトペの効果を体感した次第である。
ばりばりは提灯のあの縮んだ状態を伸ばす時に、生じる音なのだろうが、ばりばりやって来るのは、擬人化された祭 そのもののようで、嬉しくなってしまう勢いがある。
祭はヶに対するハレであり、日常的なマンネリを打ち破り普段と違う感激、特別な興奮を誘う神迎えの儀なのだ。その表現がばりばりなのだ。日常を突き破りやって来る、祭の勢いを作者独自のオノマトペで表現された一句。

 

負け凧を引きずってゆく土埃              井田  すみ子

日本人は負けの美学には弱い。やられてしまう。一点の曇りもない勝利もいいが、引きずってゆく負け凧のなんとも滋味深い後ろ姿に惹かれてしまう民族なのだろう。負の面に焦点を絞り、負け凧、引きずって、土埃と納め、古武士のような重厚な味わいのある句となった。作者には対をなす勝利者の句天井へ見得切る武者の飾凧がある。
さて、みなさんはどちらがお好きですか?

谷原恵理子の一句鑑賞(7月18日寄稿)

 

風光る波止に少女の手品ショー                 

 初めて神戸の街を見た時、なんてキラキラした街と思った。坂を彩る異人館、ハイセンスな帽子屋さん。港町ゆえに開かれた舶来文化とファッションが香る、まさに風光る街である。しかし、神戸は住んでみると違う顔を持っている。少女が港でショーをしたり、高架下では儚げな石専門店が、嘘のようなほんとのような効用を謳う。中華街の呼び込みの声と豚まんの立ち食いの列。そのような下町の匂いもあわせもつ 多面性こそが神戸という街の魅力なのだろう。
 風通しのよい爽やかな神戸と、ちょっと怪しげな歓楽的な要素をもつ港町神戸を巧みに融合させた一句。少し斜めな視線で多面的な神戸の魅力を捉えた一句と言えよう。

 

夕桜ふうっと息を吐きし色                   杉本   美佐子

   
人は夕暮れにふと立ち止まる。ふうっと息を吐いたりもする。
一日の大きい部分の仕事を終えたけれど、まだあと少しがんばらないといけないことがある。そんな時間に桜をみて詠まれたのだろう。
 ふうっとという空気がかすかに動く音が、作者の抑制の効いたものしずかな、侘まいをかんじさせながら、夕桜のほのとした色を浮かび上がらせる。薄く暮れていく夕にふうっと吐く息は女人か桜か。いいなと感じさせる俳句はどこかこの現世を超え、もうひとつの世界があることを感じさせる。

谷原 恵理子の一句鑑賞(68日寄稿)

地球儀にでこぼこの在り春の泥            筒井 喜代子
 
                  (六月号  七彩抄より)
 春は始まりの季節であり、もの思う頃でもある。旅ごころもふつふつと湧いてくる。
地球儀にある国々はくるりと回すと一瞬で手のひらでなぞることができる。
幾つかの訪れることのできた国、行ってみたい気持ちはあれど行くことの叶わぬままの国。
地球儀の山脈や大きな河が隆起する微かなでこぼこの感触に、作者の心はふとその地に降り立ち、てらてらと光る春の泥を思うのでしょう。
 さまざまな春のおもいを抱きつつ、旅への憧れが春の泥へとジャンプする。地球儀のある部屋から距離を越えて移動する俳句的エネルギーが面白い。
正と負、明と陰、隆起するものと凹んだもの、遠くへと思い馳せる作者の地球儀をなぞる手に、私達もまた春のさまざまな思いを重ね未知の国を夢見る。

 

暖かし何だ彼んだと妻外出            今村  征一

とても広い心を持った夫なのである。
暖かくなると人は動きたい。出かけたい。やたらと忙しい。
はっきり言って、夫のこと眼中になし。ごめんね。あんまり行きたくはないんだけど、義理で・・なあんて小芝居をしつつ、心は外に飛んでいる。それをまた見抜いた上で「たいへんだね、気をつけてな」などと大様に騙されてあげて送り出す作者。日々夫婦仲良くやるための知恵ですね。ほんの少しのうらみがましさがユーモラス。妻への大きな愛、感じます!

 

春寒し病みたる妻の爪を切る            木村英一朗

奥様の病気は逆の場合より心細いものなのかもしれない。
一句全体に心痛の深さを感じさせる。
爪は元気な時も病気の時も伸びるのだけれど、その病の妻の手を我が手に包み、かがみこみ爪を切る時細やかな情と共に病気の深さを、爪に如実に見てしまう作者がいる。妻の病の深さをただひとつの言葉、爪に置き変え、切っている夫の前かがみであろう心情がとても切ない。

谷原 恵理子の一句鑑賞(5月17日寄稿)

 

ただならぬ膳所の松籟義仲忌    山尾カツヨ  
吟行地の義仲寺で詠まれたのでしょう。この句を読むと、季題の力を改めて強く感じた。
信濃に育ち朝日将軍とも呼ばれ、権勢を誇った武将が、やがて人望を失い従兄弟の頼朝の命により、義経軍に敗れ、琵琶湖に沿うこの東海道の粟津で壮烈な最期を遂げた、それがこの義仲忌にすでに含まれているという凄み。義仲は美男ではあったが、立ち居振舞いの無骨な頑なな人だったという。ただならぬ人生、生きざま、人柄が松籟に託され、読み切っている迫力を感じました。

三寒は学び四温は野の風に                   松永   
あ、わかります、わかりますと思わず頷いてしまう。学びより、野の風に遊んでしまうほうが少し強い気が。だから一読してなにか微笑んでしまうような、春に一歩一歩近づいている喜びがある。寒い日には勉強をしていらっしゃる、そんな前へ前へと向かう心が、優しい手紙をもらったように読む人を力づけてくれるような句だと思う。

 

待春の光悦垣の竹真青                        大谷 
本阿弥光悦、日本のダ・ビンチとも言われるほど、書家、陶芸家、アートディレクターとして、日本の芸術に多大な影響を及ぼした人である。光悦寺は晩年思う存分にこの京都の鷹ヶ峯で工芸に打ち込み、数々の名品を残した地で、死後そのまま光悦寺となり、垣根を光悦垣という。
京都生まれの高い美意識と見識、その上に斬新さを持つ人で、光悦ときけばその目映いばかりの才能を思う。竹真青と言い切って、晴れやかで綺羅きらしい光悦の作品が心に再現されるかのようだ。待春という季題もまた常に清新さを作品に求めた光悦にぴたりと合って、一句が吸い寄せられるような絵画のようなピインと張りつめた美しさ。

誌友の一句鑑賞 谷原恵理子(4月16日寄稿)
土器を湖へ一投年新た
  
    第二十四回日本伝統俳句協会賞   大谷 櫻
  実は時間というものはどこにも存在していない。
  
  ただ人の頭の中にあるばかりだ。土器を湖へ投げ
  それが沈んでいく時間がただ一人の作者の胸の中
  にあるばかりだ。
  土器は投げられ深い湖へと沈んでゆく。そこに新た
  な年の静謐な時間がある。誰と分け合うのではない
  一人の時間と空間を得た。
  それが命豊かに育む湖と対峙する新しい年を迎えた
  作者の眼前の風景であり、清々しい心の在り方を感じ
  させる。土器,一投、年新たと、どの言葉も緩みがなく
  すっと前をむいて立っている爽やかさがある。
  清新で古風で潔い。櫻さんと櫻さんのこよなく愛す琵琶
  湖の朝が立ち上る句だ。
竜の玉置く恋の日の薬指                         奥田友子

   竜の玉は厳寒のころ思いがけず見かける実だ。常に緑である茂みの中に深い青色の弾み。それがふと作者に小さな宝石を思わせたのだろう。読み手にとっては恋の日の薬指とははっとさせられる思いがけなさだ。
けれども宝石も植物も神から与えられた大地の恵みなのだ。考えてみると石の内在力と植物はどこか似通っているのかもしれない。
でもそんな理屈よりも指にそっと竜の玉を置く恋の日は美しい。
濃い青の持つ純真なイメージと初々しい恋はよく似合う。
何よりも心のなかにたくさんの引き出しを持っている女性は素敵だ。時々引き出しを開けては、宝石のような小箱を出して私たちに見せてくれる

谷原 恵理子 誌友の句鑑賞 (寄稿3月6日)

冬日向くるりと回す子猿かな    山田 佳乃

    
     冬日向のなかに子猿がちょこんと座っている。まだまだ寒さ
     が続くこの季節、戸外に出ても美しいものは見つけられない。
    
     風は冷たく木々に緑はなく思はずコートの襟をかき合す。
     そんな時少し高い木の上でちいさな冬の日向を楽しんでいる
     子猿を見る。冬の動物園は意外に楽しい。ぼんやり見ている
     と背中を向けていた子猿がくるりとこちらを向いた。寒くてもわ
     ずかな日の光を楽しんでいる子猿の動きは俊敏で愛らしい。
     日向がくるりと回った、そう感じた主宰の視線が若若しい。
     動物の愛らしさをこんなふうにユーモラスに描きながら、風景の
     みえる句だと思う。
    梅の香や母の在せる風ならん       山田 佳乃
    三年前、弘子先生とお別れした日は寒い雪のちらつく日だった。
    寒い冬から春の芽吹きを感じる頃、あのやさしかった笑顔が
    ふわりと舞い降りる。いつも高い志を持って俳句に向かっていた
    弘子先生が香高い梅の香のなかに、風のなかにいらっしゃる。
    弘子先生の面影を風のなかに感じながらすくっと立っている主宰
    の姿が清々しい。
  
   朴の花夜空と杯を交わしけり         故 石塚 春美
   朴の花の高さ、白さ。夜空がどんなにか美しく石塚さんの胸を打った
   のだろうか。澄み切った石塚さんの心の在り方に圧倒される句である。
   高みに咲く白い花と一体化した作者が夜空と交わした杯には、なみなみ
   と美酒が満ちていたことだろう。お会いしたことはないのだが、最後まで
   毅然とした態度で微笑みをたやさなかったであろうお人柄が偲ばれる。
   悔いなく生き抜いてきた一人の女性の最期に咲かせた大輪の花のよう
   な句である.。                        合掌
  
  大琵琶の果てまで凪ぎて桃青忌            大谷櫻
  琵琶湖を知り尽くした作者ならではの句と思う。眼前に海のように、どこま
  でも凪いだ大琵琶が広がりたゆたうような気持ちになる。こんなすばらしい
  景をどう表現したらいいのかと立ちすくむ私に、いつも自由自在に、こん    な ふうによと、格調高く詠いあげる櫻さんなのである。   

谷原 恵理子の一句鑑賞(12月12日)

片栗の花聴いている水の声                     山田 佳乃

 
 この水は静かな静かな山辺に流れる水なのだ。うつむいた片栗の可憐な花のすぐ近くを川が流れている。そこに佇む人が水の音を聴いている。しだいに片栗の花はその人になり、その人は花になり、自然と一体化して聴く水の音はさらさらと澄んでこの世のことから遠いところへと誘う。きっとこのような心情でつくった句のことを授かった一句と言うのだろうと思う。 
 作為もなく、片栗の花と水が互いに照らしあい,響きあい幸福な出会いとなった句だ。 
  一輪の花のうつむく姿と細い静かな山の川とを、淡々とした姿勢で描きそれは何か一途に俳句に向かう主宰の姿にも似ている。静かである。そして会うべくして会った運命のような水と花のように、主宰の心の中にはいつも俳句があるのだと感じさせる、私の一番好きな句である。
 
 

山田佳乃第一句集 春の虹より    日焼して水玉模様よく似合ふ          

    谷原 恵理子の一句鑑賞
    今青春 真っ盛りの日焼けだ。よく焼けたすらりと伸びた手足、
    健康的な少女の躍動感と可愛らしさを眩しく見ている。
    女にとって水玉は永遠のアイテム。幼い頃の赤い水玉スカート
    小学生の頃に着たお母さんの手縫いのワンピース。
    暑い夏休みの午後台所に見つけるカルピスの水玉。大人にな
    って、シックな白と黒の水玉ブラウスにおおきなつばの夏帽子
    少し気取ってジャッケットの胸ポケットに忍ばせる水玉スカーフ。
    水玉は女が生きていく年代のあちこちに登場するノスタルジック
    なモチーフなのである。
    揚句にはぐんぐんと音を立てて綺麗になっていくような少女のその
    ほんの少し手前,あっというまに過ぎていく大切な夏の時間が描か
    れている。たぶん主宰の娘さんのことなのだろう。母の手の中から
    飛び立つ前の幼さを残す娘の瑞々しさ、その時間を愛しんでいる
    母としての視線ー。
    母というものはもしかして見ていることこそがもっとも大切な仕事
    なのかもしれない。今という時間を走る子供たちは自分を省りみ
    たり、過ぎていく時間の速さを感じはしない。水玉模様という普遍
    性を纏い、子としての、娘としての、母としてのそれぞれの時間が
        流れる。
    パチリ。主宰の句が鮮やかに少女の夏を写す。