誌友の投稿エッセイ拝見

 誌友からの投稿エッセイを掲載しています。投稿順に並べて

あります。

日々の些細なことから、社会のことなど、俳句の枠にとらわれない素敵なエピソードをお待ちしています。

 どうぞ、皆さんも文章を書いてみませんか?

天草への旅             

                                            池末 朱実

 

 

宇土半島に差し掛かると、進行方向右手に有明海が見えてくる。

 

道なりに走ると、天草の一号橋。私は、ココから見る飛岳の景色がお気に入り。

 

天草に行くのは、これが3回目。天草は多くの島々からなり、一号橋から五号橋の、大きな橋で繋がっている。 

 

 

天草四号橋。510.2メートル。 五橋の中で、一番長い橋。 

 

 百の島眺め天草秋の航

 

 小鳥来てをり天草の無人島

 

 赤い橋は、第五番目の橋。 この橋を渡れば、天草上島~下島へ行ける。天草市へ。

 

 天草市には、キリシタンの資料館や、世界遺産候補の教会などがある。 

 

 八月のイルカに会ひに天草へ

 

 露けしやずつと眺めてゐたき海

 

 

今度訪れる時は、去年訪れた場所へも、足を延ばそう。

 

2017.8.25 天草にて

 

 

   うさぎ新年句会

 

                       高橋純子

 

                         (H29.1.6)

 

本日のうさぎ句会は舞子への吟行会でした。

 

まずは舞子駅を降り東へすこし行ったところにある旧木下家住宅を訪れました。

 

数寄屋造りの趣のある和風住宅でした。

 

南に続く白砂青松の舞子公園を抜け、舞子海上プロムナードへと向かいました。

 

ガラス張りの遥か下に海を眺めつつ橋の高さにどきどきしながらしばらく渡るのです。

 

地上へ降り立ち移情閣へと歩を延ばします。

 

孫文を学びながら六角堂の窓から六甲山、瀬戸内海、淡路島を存分に眺められます。

 

移情閣を出た辺りは多くの人が釣りを楽しんでいました。

 

海に沿って行くと旧武藤山治邸があり、明治の実業家の生活が偲ばれました。

 

二時間弱の吟行の後、会場となるホテルセトレに着きました。

 

大橋を望む個室で一時間の句会の後、パスタフルコースの豪華な新年会を楽しみました。

 

 

 

  大橋の空よりこぼれ初雀      山田佳乃先生

 

  さざ波のきらめき寒の瀬戸の海   長谷川通子

 

小鯛つり上げて舞子の寒日和    熊岡 俊子

 

孫文の偉業のあまた冬灯      林  和子

 

蓬莱や洋館海へ開かるる      吉村 玲子

 

初漁の光あまねき瀬戸の海     藤本たける

 

初荷船綺羅に分け入る明石の門   前田 容宏

 

掛軸の一文字読めず鏡餅      詫  洋一

 

冬凪の一直線に波しぶき      宮脇 和子

 

寒椿落ちて旧邸彩れり       遠山 俊子

 

祝福の詞も添へて御慶とす     中村 恵美

 

親しくも交はす挨拶松の内     高橋 純子

 

 

神無月 帰郷  谷原 恵理子(H28.11.16寄稿)

 父の三回忌に、青森に帰郷した。

 

18歳で、青森を出てから、もうずいぶんな年月が経ったが、秋に帰郷するのは、三度めだ。

 

春の桜、夏のねぶた、お盆、お正月には帰っていたが、秋に帰るのは、ほんとうに珍しい。

 

妹と法要の後に、青森の最後の頃の紅葉を見ようねと約束をしていた。

 

今は、フェイスブックなんかもあるので、帰るからと書くと、高校時代の仲良しが、気を効かせて、ミニ同窓会も用意してくれる。それを見たスイスにいる友人も、私の帰郷に合わせ、スイスから帰ってくると連絡があった。

 

さらにその投稿を見たあまり喋ったことがない男性の同窓生も、来たいと言ってきて、静かなる法要の帰郷は、だんだんと賑やかな様相に。

 

帰郷の日の温度は、二度。いきなり、冬の青森の空港。

 

北国に手袋は必須アイテム。友人が、わざわざ忘れないようにと、連絡をくれたので、手袋と、一番暖かいコートを着て、妹との待ち合わせ場所に向かう。

 

花やお菓子を用意してくれている妹と無事に会い、レンタカーで菩提寺に向かい、神戸との温度差に震えつつ、三回忌の法要を行い、雪が降ると行けなくなるぎりぎりのタイミングで、お墓参りに行った。

 

この日は、ほんとに寒くて、お墓のそばにある白樺が沁みるように白く、その奥の紅葉は痛いくらいに赤く、美しい。

 

関西ではまだまだクライマックスを迎えていない紅葉は、青森では、最後の燃えるような紅葉で、広いお墓のあちこちに深い赤い色の木々が、いろいろな深度で紅葉を競っていた。

 

墓参りを終えて、高校から家に帰るルートの途中にある海が見える公園に行ってみた。

 

春は桜、夏は泳いで、高校時代は帰りに通り、思い出 深い場所なので、いつも妹が行きたいと言う。

 

高校の甲子園出場の予選もあるし、広大な松林もあり、その先に海がある。

 

途中の道は、すごい量の銀杏並木が続き、道は金色に輝いていて、妹は秋の青森を見たことがないので、ただの街路樹がこんなに美しいと言って、ひどく驚いていた。

 

公園に着いて海に行ってみると、夏には聞いたことがない、荒いゴォーと鳴る海峡の海鳴りを聴き、淋しい気持ちになる。

 

松林から激しい風の音がして、海と呼応する。

 

なんにもない、広大な公園の丸い空間の外側に沿って、紅葉を見るために置かれたようなベンチに腰掛けると、赤い色が押し寄せてくる。

 

妹がこの公園で私たちを探している亡くなった母の留守番電話があったから、聴いてみない?と言う。

 

何度か言われ、いつか聴くと、拒否していた件だ。

 

でも、この場所で録音された留守番電話なので、五年経って、ふと聞いてみようと思い、耳に電話を当てた。

 

《いま、公園に着いたよ。どこにいるの?桜がすごく綺麗だね。》

 

と、元気に弾んでいる母の声だった。

 

思わず、なーんだ、お母さん、やっぱり生きてたんだ、と言いそうになる明るい声を、ベンチに座り、二度聞いてみた。

 

それから、2人で静かに両親のことをポツポツと話したりして、ホテルに向かった。

 

もう、生家にはいかない。両親のいない生家には行きたくないので、行かないことに決めた。

 

 

 

夜は、妹と別行動で、ミニ同窓会の食事会に行った。

 

人が見たら、みんなそれなりに年とっているのだろうが、私の目には高校時代のいつも一緒に帰っていた友人は、あまり変わらないみたいに見え、スイスから10年ぶりに帰国して会う友人も何も変わらないみたいに見え、小さな同窓会は夜に向かってやけに盛り上がってしまった。

 

飛び入り参加の男性が復活したディスコに行こう!と二次会は、なんとディスコに行った。

 

 

 

1970年代から、30年、今は当時のディスコを復活した店がポツポツできているらしいが、青森でディスコに行くとは!と、みんな、びっくりしていた。まるでタイムマシンに乗ったような夜だ。時を越え懐かしいダンスナンバーに、もうすっかり全員思い出の渦に巻き込まれ、熱狂の夜になってしまった。

 

 

 

帰りに、450人もいた同窓生がこんなふうに、各地から集い、楽しい夜を過ごすというのは、奇跡ではないかと話しながら、同窓生ってすごいね、とちょっと熱くなりながら語り合いつつ、冬の匂いの青森の真夜中の道を歩いた。

 

両親がいなくなっても、花見もねぶたも見て、一緒に年をとろうね、と再会を約して別れた。

 

翌日は、妹が見たことがないという弘前城の紅葉を観に行った。

 

私は、一度両親が元気な頃に見たので、腰を抜かすほど美しいからね、というと、笑っていたが、弘前城に来てからは、確かに腰を抜かすほどに美しい、と妹は寡黙になっていた。

 

雪が降る前の最後の、いろいろな赤が競うあまりに圧倒的な紅葉で、東北にしかない量の多さ、寒さに深くなる紅葉の色の多様さに、身動きもできないくらいに、見惚れてしまった。

 

今は移動しているお城の後ろに長く花嫁のドレインのようにひく岩木山の裾が気高く、時折山に向かい、手を合わせている人を見かけた。

 

岩木山は、弘前城の後ろに神々しい姿で、既に頂きに雪を抱き美しかった。

 

父の法要に、私は二年に一度はこの紅葉を見るだろう。

 

それもまた、父のおかげなのだと思う。

 

桜の頃には目眩が起きる弘前城は、紅葉の季節は、しんと美しく、深い赤色が何度も影のように深く胸に忍び込み、亡き両親と過ごした日々を慈しむことができた帰郷であった。

 

 

 

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北海道の旅

             谷原 恵理子二日目は、富良野から、40分ほどのドライブで美瑛へ向かった。

 

道はどこまでもまっすぐだ。

 

どんな初心者でも運転ができそうなくらい、遠くまで見渡せる広い道を、免許取り立ての息子に運転させてみる。

 

あまり、車が走っていないので、緊張感もすぐになくなり、真っ赤なサルビアの続く丘を見かけ、車を降りてみる。

 

久しぶりに見る晴れた朝。赤、黄色、紫が、ダイナミックに咲いている異国のような風景は、秋という季節には初めて見たような気がする。

 

北海道にいた頃、冬と冬ではない季節の二つしかないのでは?と思うほど冬は長く、遅い春には梅も桜もラベンダーも全ての花が一気に咲き、秋は驚くような速さで通り過ぎ、また長い冬がやってくる。

 

秋があまりに短いため、こんな秋のサルビアが燃えるような景色は見たことがなかった。

 

有名なケンとメリーの木、青い池も楽しみなのだが、圧倒的な数の花が咲き揃う強い赤に見惚れ、なかなか先に行けない。花の先は地平線。

 

でも、ケンとメリーの木はそこからすぐだった。

 

風を押して、この清涼な空気を楽しむ観光客は、自転車を漕いでいる。

 

関西の坂の街に住む私は、もう十年以上、自転車に乗っていない。

 

寄り添う二本の大きな木のそばに自転車を漕いで行ってみたいなと思うが、残念ながら車なので、車を止めて、てくてく歩く。

 

途中にケンとメリーの木を眺める丘の上の喫茶店があり、風の中で、ベンチに座り、ラベンダーアイスを食べた。

 

地球が丸いなと思う風景だ。

 

いつまでも座っていたいが、昨日まで見られなかった閉鎖していた青い池へと向かう。

 

人口のダムだが、なにかが作用して

 

信じられない美しい青だという池を見てみたかった。

 

どんどん、深い森の方へと向かうこと一時間。

 

少し陰ってきた池に着く。水の中から、生えている白樺のような葉のない木々は、オブジェのようで、これまでにみたことがない、不思議な美しい青い池を、たくさんの人達が驚きと共に見ている。

 

グレイの混じった青さから、日が差して緑を含む透明な青い色へ変わる。生き物が決して住めない感じがする、自然を超えたような美しさだった。

 

 

十二年ぶりの台風がこの青い池を濁らせ、復活できるのか危ぶまれたが、また不思議な青い色の池は復活してくれて、私達にもその神秘な色を見せくれた。

 

ラッキーだなと思う。

 

帰りには、また、四季の丘に、入園して、花畠を見て、美味しいとうもろこしを食べた。

 

夕食には、また秋刀魚を食べる固い決意をしていた。

 

 

 

三日め、北海道最後の日は、以前住んでいた札幌の円山公園に向かった。2時間半のドライブ。

 

次第に、道は都会的になって、もう息子に運転などさせられない。

 

札幌大通りから過ぎて、懐かしい六花亭本店が見えて、車を止めた。

 

このとなりに、ピアノの先生のお宅があり、子供二人と、雪の日に滑りそうになりながら送り迎えをして、銀の靴を履いた先生が出迎えてくれたことを思い出してしまう。真向かいが広大な円山公園と、北海道神宮で、毎日この公園を散歩したことが懐かしい。

 

胸が痛くなるような美しい紅葉、すぐそばの原生林に住む栗鼠。

 

無料の大きな動物園。

 

子供がお小遣いで買える意外に安い、六花亭のお菓子。

 

時間は有限ながら、思い出が押し寄せてきて、どこから行こうかなと思いつつ、まずは、六花亭近くにある、喫茶店で香り高いコーヒーを飲む。

 

子供達は、こんな素敵な喫茶店が前からあったのかとびっくりしているが、その頃は子供だったから、たぶん私が1人で来た喫茶店だった。

 

札幌は、冬が長いためか、喫茶店はとてもレベルが高い。

 

選りすぐったコーヒー豆、インテリア、喫茶店文化のレベルが高いと思う。

 

花の季節が短い分、人がふらりと立ち寄るこんな場所に、思いを込めるのだろうと思う。

 

よれよれになった自分たちの身なりをコーヒーを飲みつつ整え、隣のピアノの先生のお宅を訪ねてみた。

 

急なことだったが、先生はとても喜んでくださり、ちょうどレッスンとレッスンの合間だったので、懐かしいピアノ室に案内してくださり、子供達としばし歓談。

 

娘がお別れに差し上げた中学生の頃の点描画を、とても立派な額に入れて飾ってくださっていて、嬉しかった。記念にパチリ。

 

次には、懐かしい街並みを見ながら、私の友人の持つアパートに向かう。ホテルではなくぜひ、空いているお部屋が、泊まれるようになっているからと、泊めていただくことになっていた。

 

彼女とは、十年以上経っても音信が絶えない、札幌にいた頃は、週に3回は会っていたほどの仲良し。

 

アパートの一室は、三部屋もあり、新しく改装され、私達の旧居のすぐ近く。

 

自分の家のように使ってね、いつでも帰ってきてね、と言ってくれる。

 

子供らとも旧知なので、みんなで、馴染みだった、仲良しのおじさんのお寿司屋さんに行き、さらに懐かしさが募っていった。

 

十年過ぎたら、人の運命も大きく変わっている時がある。

 

懐かしい人達に、穏やかな時間が流れていて、無事に再会できたことが嬉しい。息子がこのおじさんにひどくかわいがられ、全く金額に合わない、好意でしか食べられない無茶な食べ方をしていたことが、話題になり、息子が大デブから、普通の体型になったことをどこか、残念そうに話して、みんなで笑ってしまった。

 

この人達と、何度も何度も、食べたり飲んだり、楽しい時間を過ごしたなあと、しみじみする。みんなが、おかえり、と言ってくれる札幌の人の優しさに打たれた。

 

翌日、朝一番の飛行機。

 

友人が、朝の5時半に車で送ってくれて、別れぎわに、三人分のお手製の梅が入っているというおむすびまで持たせてくれた。

 

温かいおむすびを三人、手の中に持ちながら、なんて、良い旅だったのだろうと、言い合う。

 

お母さんのお友達、優しいねえ、札幌の人は温かいねえ、と、子供達は、電車の中で、パクパクとおむすびを食べ、二人とも、たぶん私もほどけたような顔になっていたのだった。

 

 

 

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富良野    谷原 恵理子

            H28.9.24寄稿

 

台風が何度も襲い、行けるかどうか、危ぶみつつ、以前住んでいた北海道へ、十年ぶりに訪れた。

 

 

 

札幌市円山公園に住んでいたのは、二年半。娘が中学生、息子が小学校五年生までだったので、楽しい思い出と、ほろ苦い思い出が等分にある。まだ幼かった息子は、雪が降る美しい札幌の街で、のびのびと大地の恩恵を享受していたが、思春期の娘にはいろいろと辛いことがあり、札幌の思い出を封印していたのだ。

 

十年を経て、初めて北海道を訪れてみたいと言う娘と、ひたすらに楽しい思い出しかない息子を伴い、九月中旬、千歳空港に降り立った。

 

空港で、レンタカーを借り、東京から飛行機で到着した大学生の息子と落ち合い、ほとんど高速道路を運転したことがない私が運転して、一路新富良野プリンスホテルへと出発したのは、午後六時。

 

約二時間半のドライブは、自信がなく心配だったが、ほとんど車が走っていないので、高速道路を運転したことがない私も、しだいに大胆になる。暑さの厳しかった関西から、清らかに思える冷たい秋の大気に、嬉しくなってしまう。

 

ほとんど車の走らない富良野近くに差し掛かった時、赤い光る点が見えた。

 

息子と娘が、狐だー!と叫ぶ。

 

月が綺麗に見えていて、狐が道路脇をどこかに急ぎ走っていくのが見えた。

 

高速道路を出ていたので、ちょっと路肩に止めて、狐の姿を見送る。

 

三人とも初めて野生の狐を見て興奮気味。

 

十年前に戻って、すっかり子供気分になり、騒ぐ27歳の娘と22歳の息子。

 

やったぜー、とか、いい日だわーとか、盛り上がる。

 

2泊する新富良野プリンスホテルはもうすぐ。

 

ホテルが見えてきた頃、また狐と会う。

 

小さな狐だ。クッキーあったらあげるのに、とか、言いながら、車のガラス窓越しに見て、北海道の自然に早くも酔う。

 

キラキラとライトアップされた新富良野プリンスホテルは、おとぎの国のような、山の中のお城のような華麗さだ。

 

北海道のホテルは、たいがいライトアップされ、美しかったことを思い出す。

 

すでに、8時半。

 

夕食は、十時まで営業しているホテルの中の居酒屋に行くことに決めていたので、チェックインしてすぐに居酒屋に向かう。

 

居酒屋というにはもったいない、素晴らしい料理が出てきてびっくりしてしまう。

 

十年ぶりに味わう北海道の秋刀魚のお刺し身は、素晴らしく美味しい。

 

炭火で焼かれた秋刀魚は、さらに美味しい。

 

身欠き鰊のウニ和えという、いかにも北海道的な一品は、酒飲みにぴったりなのだが、お酒をあまり飲めない子供二人にも美味しいらしく、みんなで、これは居酒屋というレベルとは違う!とすっかりご機嫌になる。

 

閉店まで食べたいものをみんな食べて、綺麗な秋の大気の外に出てみた。

 

ホテルに付随するニングルテラスの横に、誘うかのような、バーの看板が出ていた。

 

森深くに続く小道を指すバーの看板に惹かれ、こんな森深くにあるバーって、どんな店だろうと、矢印に沿って進む。

 

今にも鹿が出てきそうな深い森に、ふかふかと木のチップが敷かれた柔らかな道をどんどん歩く。

 

幻想的で、童話の中に迷いこんだような気持ちになる。十分ほど歩いて、ついに、石の壁のいかにも秘密めいたバーのドアが見えてきた。

 

ヨーロッパの田舎の家のような佇まいに、素敵だなあと思いながら、ふらふらとドアに寄り、開けると、石の壁に蠟燭のひかりが揺らめき、静かにカクテルを飲んでいる先客がちらほらといるのが見える。

 

俳優さんみたいにかっこいいバーテンダーがいて、ますます夢心地になる。

 

気持ちのいい椅子に座り、暗闇に灯された蠟燭の火に癒されながら、一杯だけ、とびきり美味しいカクテルを飲んだ。

 

 

 

また、童話のような小道を、熊が出ませんようにと祈りつつ、ホテルへ戻って、大浴場に行き、狐を見たことなど反芻しつつ、大満足の北海道一日めは更けていった。

 

 

 

団栗の森行き止まりバーのドア

 

 

 

                           恵理子

 

              続く

 

 

 

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台湾の旅 二日目  谷原恵理子

              H28.9.13寄稿

1日目の台湾紀行から、すっかり日が経ってしまい、申し訳ありません。

 

 

 

さて、二日目、前夜に夕食にありつけなかった私と娘は、朝早くに目を覚ましていたが、台湾の一番有名な小籠包のお店、ティンタイフォン鼎泰豊に開店を待ちきれず、8時半にタクシーで向った。

 

タクシー代は、けっこうな距離を乗っても、二百円強。タクシーに乗る以外、選択肢のない安さである。

 

8時半には、もう店の前は、人でいっぱいだったが、少しの待ち時間で二階のテーブル席に通してもらえた。

 

お腹が空いているので、台湾人もびっくりするほど、小籠包や筍の煮物、焼きそばなど、七種類ほど頼んで、感動しつつ食べた。

 

筍の煮物は、野菜が好きではない娘が、何故これほど美味しいのかと驚愕していたし、小籠包は一つ一つ、拝みたくなるほど美味しいので、地元の人もこのお店は、別格に美味しいと言っているのも頷ける。

 

できることなら、三日間毎日食べたかったと思ったが、今回はこれが最初にして、最後。

 

ヘチマの小籠包、ふかひれの小籠包、海老蒸し餃子、複雑で感激の焼きそば、限界まで堪能して、夢心地で朝、昼兼用の鼎泰豊を後にした。

 

 

 

限界まで食べてしまったので、しばらくおしゃれな店がある永康街に行き、ふらふら散歩。

 

雑貨店が多く、路地裏にも素敵な店がいっぱいで、見ても見ても飽きない。洗練された落ち着いた街で、ちょっと疲れたら、大きな公園もあり木陰で休める。

 

アンティークの茶器や、台湾のブティックを見て、公園で休んでいると目の前に、いかにも素敵な台湾茶の店があり、暑さから逃れるため入ると、しんとする美しい緑があちこちに配された、広い空間のテーブルで特別な感じがする台湾茶を注文。

 

台湾茶の店は、日本の 茶道に通じる美意識がある。空間、光と暗さの配分、素朴な植物の見せ方。

 

静かにお茶を楽しめる、静謐な空間だ。

 

10分歩くと、耐え難くなる暑さに、この台湾茶をいただくことで、

 

とても癒される感じがした。

 

その後は、娘の用事で、絵を展示するギャラリーへ向かう。

 

好意で来てくれた三ヶ国語を話せる方と合流し、ギャラリーの絵を見せてもらい、オーナーさんと、1時間ほど仕事の話を詰めて、終われば夕方になっていた。

 

 

 

朝からあんなにも食べたのに、夕方になったからと言って、また食べて大丈夫だろうかと不安になるが、夜は台湾で一番高い建物、101信義の85階のレストランに招かれたので、ちょっとだけドレスアップして夕食をワインと共にいただいた。

 

85階なので、360度のパノラマを見ながら、台北の山が夜へと移行していく様子、煌めく街の灯がやがて散りばめられ、最後の夜は夜景を楽しんで、ちょっと夢心地。

 

英語も中国語も話せる友人に何もかもお任せして、のんびりした時間を過ごした。

 

明日は、もう日本に帰る。

 

知るほどに楽しい、奥深い国だった。

 

翌日、朝の10時に迎えの車が来るまでに、名残惜しく、朝はまた5時半に起きて歩いていける公園に行き、太極拳をしたり、散歩している人に混じって爽やかな朝を満喫。

 

荷物を大急ぎで詰め、またしても、台湾人が食べる朝ご飯を食べに、ホテルを出て、何軒も軒を連ねる通りに行った。

 

揚げパンが積み上げられ、わずか30円ほど払うと、お盆に、肉まんくらいの大きさの中華まん、ストローをさした紙カップの温かい豆乳、大きな餃子のようなものを自動的に入れてくれる。買った屋台のとなりの簡素なテーブル席で食べた。

 

そしてまた、自分の家では料理しないからこそ、朝食専門の店がこんなにたくさん並び、気軽な値段で野菜いっぱいの美味しいものが食べられるこの国のシステムは、いいなあと

 

羨ましいような気がした。

 

外食と言っても、野菜がたくさん入っていて、中華まんも小籠包も割ると、真緑に見えるほど、野菜が多い。

 

そして、早起きして、公園はちいさくても大きくても、太極拳をしている人たちが、真剣な顔でゆったりと体と会話しているのだ。

 

私は食べていただけだから、太極拳に参加できなかったが、台湾では1人も太っている人を見なかった。

 

暑い国の人が気持ち良く暮らすための知恵と文化が、この国をとても魅力的にしているのだなあと思った。

 

最後に、すぐ近くの関羽が祀られた行天宮にお参りし、10時には空港に向かうタクシーに乗った。

 

二泊三日、食べて歩いて、見て、濃い時間を過ごした旅だった。

 

何度も訪れたい国、台湾に感謝!

 

 

 

    台湾への旅      H28.8.2寄稿 

一日めのクライマックスというより、この旅のハイライトだったのは、十分、九份への旅だった。
ガイドブックによく載っている九份に行く前に、近くの十分に行ってみた。
市内から約一時間で、山が近く滝もある、日頃私が暮らす街にもどこか似て、郊外ののんびりした景色が広がっている。十分の駐車場に車を止めて歩く。
私が見たいなと思っていた、天燈と呼ばれるランタンが空を舞っている。
懐かしいような光景だ。猫たちが占拠しているアパートがちらほらある。古い山沿いの町の空が広い。
その空に、風船のような点燈がふわり、ふわりと高く舞っていて、初めて見たのに、既視感がある。
ガイドの男性が、あれはかなり大きいんですよ、と教えてくれた。
まずは行ってみましょう、と言われ、途中自主的に散歩している犬や、野良犬に心を取られつつ、点燈を揚げる場所に向かった。
日本にはもう野良犬を見るような場所もない。
台湾では、野良犬にも生存権があって、観光地でもごく普通に、凄むでもなく、怯えもせず、堂々と歩いていた。
野良猫もいきいきして、アパートの屋上や、庭を走って遊んでいる。
日本も昭和の時代にはこんな光景があったなあと思いながら、点燈を揚げる場所に着いた。
線路沿いにずらりとお土産物屋が並んでいて、その線路の上で、火がついた点燈を揚げた。
赤、ピンク、紫、黄と四つに色分けされた、人の腰の倍ほどある提灯のようなものに、願い事を筆で書いて、お店の人が、空洞になっている中に、火を点け、それを空に飛ばせるのだ。
私も娘も四つ、願い事を書き、二人で左右を持って、火を点けてもらい空へと送りだした。
雛流しと少し似ているかもしれない。
下から、点燈の火を見上げながら、この願い事が、八時間も空を漂っていると教えてもらい、この空には願い事がたくさん漂っているんだなと思うと、十分の空がとても美しく見えた。
また、車に戻り、さらに九份へと向かう。
その昔は金鉱があり、閉山により古き良き時代が手つかずで遺され、芸術家の注目を集め、その活動がまた行楽地へと生まれ変わるきっかけになった。
映画の千と千尋の神隠しのイメージにも似て、終日灯るオレンジ色の光のくねくねした細い店が立ち並ぶ路地が、怪しくも、ノスタルジックな街だ。
店が途切れたぽかんと空いた空間からは、海が見え、たくさんある脇に逸れる道は、誘うかのように魅惑的だ。下がる道も、登る道もつい入りこみそうになるが、歩いている細い路地にはびっしりと、狼の筆を売る店、果物を売る店、団子、茶藝館と見るもの全てに目を奪われてしまう。
そして時折、人が三人通れるくらいの細い道を、二人乗りのオートバイや、道幅いっぱいの車が走っていく。
目眩のような、混沌とした夜を、オレンジ色の光に照らされながら、進んで行く。
一番入りたかった茶藝館を見つけて
入ると、美しい洗練された店内の席に案内されて、台湾茶のセットをお願いし、お菓子もたっぷりついた本格的台湾茶をいただいた。
茶器も美しく、蜜のような香りがする台湾茶は、とても美味しい。
何杯も葉を変えて飲み、台湾茶を満喫すると、もうお腹いっぱいになり、夕食はこれでよしとした。
最後に、店のテラス席を見にいくと、九份の夜景と海が見えて、ほんとに素敵な光景だった。
タクシーの運転手さんとの約束は、九時
階段で、暑さにぺったりと寝そべる犬や、開け放した家の軒先に吊るされた花を見ながら、運転手さんとの約束の場所へ急ぎ、無事に会えてほっとした。

朝五時に
家を出てから、ずいぶんいろいろなことをして、まだ同じ日の夜10時とは信じられないくらいだが、ホテルに戻ると夢も見ないで、 深い深い眠りについた。
一日めの台湾は、点燈とお茶と台湾茶と美しい書の展示で、忘れられない楽しい一日になった。

 



 

蜜の香の広ごるお茶を夏館

 

                            恵理子

                   二日目に続く

 

暑中お見舞いもうしあげます。

 

                       平成二十八年夏  藤本たける

 

 

 

 梅雨が明けるということはこういうことか、と思い知らされる、まごうことのない夏の暑さが、青空と入道雲の下に満ちています。

 

蝉しぐれが窓辺にとどき、レースのカーテンがゆれます。鬼百合の長い茎が、夏蝶のとまるたびにゆっくりと下の方にさがり、朝顔の蔓も二階までのびて毎朝あたらしい花を咲かせて楽しませてくれます。

 

夏の暑さをいとってばかりじゃ俳人として哀しいぞ、なんて強がりをして、朝の早いうちに山辺を歩くことをしています。今日ひろった夏の景色を暑中お見舞いに、どうぞ。

 

 

 

パソコンの不調のため二月以来お休みさせていただいた「俳句、そぞろ歩き」を復活させていただきます。どうぞ時々はご覧くださいますように……。

 

台湾への旅  谷原恵理子     H28.7.18寄稿

 

台湾に行ってきました。弾丸二泊三日。

 

私の書の先生の初海外展示と娘が行きたかったギャラリーが、どちらも台北なので、久しぶりに娘との海外旅行二人旅。

 

一日めは、一時に空港着で、すぐにホテルへ荷物をポイっと置いて、初乗りが二百円ほどのタクシーで、むんと暑い台北の街へ繰り出す。

 

行き先は、美味しいと評判の小籠包の店。

 

これが、朝五時に家を出て以来の一回目の食事なので、蟹味噌の小籠包、野菜だけの小籠包、小豆と餅米の小籠包などを一気に注文してしまう。

 

湯気の立つセイロの蓋をあけてみると、なんと10個入っていたので、女二人で30個の小籠包を食べ切る。

 

野菜だけの小籠包は、野生味の強い青い野菜のえもいわれぬ美味しさで、感激してしまう。日本では食べたことがない野菜なのだと思う。

 

野菜のあまり好きではない娘も、ぱくぱくと食べ進める。

 

生姜が千切りになったあっさりしたお酢のたれがまた美味しい。

 

もっと食べたいが、それだけでお腹がいっぱいになり、時間もないので、30個食べ切る私と娘は、食べることにおいて、たいへんな実力の持ち主だなあと思う。

 

心を残しつつ、本来の目的である展示がある、小満ギャラリーへと向かった。

 

ここは、閑静な路地にある茶藝館。

 

入り口からすでに、素敵な予感がする。

 

中は、選び抜かれた美しいアンティーク家具、アンティークの窓、書と

 

陶器が、渾然一体となり、癒しの空間を作っていて、日本の美意識に通じるものがあった。

 

書が美しく、仕切りの布がすきとおり、台湾茶を広々とした雰囲気のあるテーブルでいただいた。

 

まるで、親しい人の家で飲むお茶のようだが、お茶は蜜のような香りがして、美味しい。異国の味だ。

 

すっかりゆったりとした空間とお茶に寛いでいると、突然の雷。

 

古風な窓から、雷の光が入り、室内がさらにドラマテイックな様子になる。

 

スコールが降るが、お暇する頃には晴れて街は、少し涼しくなっていた。

 

午後三時半。

 

日本から予約していた貸し切りタクシーで、ここから、十分、九份へ向かう。

 

一時間の小旅行。すごく楽しみだ。

 

タクシーの運転手さんは、日本で大学を卒業した方で、とても親切な方だった。三人で楽しく話しながら、真夜中近くまで、一日めのクライマックスの十分への旅のスタートだ。

 

 

 

                           続く

 

 

 

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京都の雨  谷原 恵理子 H28.6.16寄稿

 

梅雨入りしたが、お天気は持ちそうな気配の日曜日。

 

六月にいつも行く車折神社に、茅の輪くぐりに家人と出かけた。

 

一年の半分が過ぎようとするこの季節、身についた不運や穢れを祓うというのは理にかなっていると思う。

 

我が家にも、かすかに病や変化があり、元気に夏を乗り切るためにと、茅の輪くぐりをしてきた。

 

車折神社は赤い玉垣が並び、芸能の神様がいらっしゃるのだが、本殿でも芸能神社でも、真剣な面持ちで、長い長い祈りを捧げている人を見かけた。

 

私達も、茅の輪くぐりをしてから、長い時間祈り、すうっと体が軽くなったような気がした。

 

この神社から車で10分ほど離れたところに、法金剛院があり、いまは花菖蒲と紫陽花が見頃と聞き、人もあまりいないひっそりとした法金剛院を訪れた。

 

小さな庭だが、くちなしが匂い、しっとりした花菖蒲が美しい。

 

待賢門院が造園させたという庭で、極楽浄土をイメージしていると言う。

 

降りそうだった雨が、ポツポツと優しく紫陽花と花菖蒲を濡らし、たくさんの蓮が美しい葉に、雨の粒を宿している。

 

小さな池だが、蓮が見渡す限り緑の葉を広げ、花が咲いたらどんなにか綺麗だろうと、雨を遮ってくれる木の下に座り、長い時間見とれていた。

 

人は、日曜日なのに、私達の他に一人しかいず、静かな六月の花の庭を楽しんだ。

 

一、二本咲き始めた蓮は、やはり極楽浄土に見立てたこの庭にふさわしく、清楚な花を咲かせていた。

 

一面の蓮池の花を見にこようと、また七月の庭を楽しみにして、法金剛院を後にした。

 

帰りは、小さな和菓子屋で、紫陽花の花をかたどった紫のお菓子をお土産に。

 

紫の花たちを濡らし、京都の雨は本降りになっていた。

 

 

桜めぐり(2)

 

私と家人は、桜が満開の頃に二人とも誕生日を迎える。
六日しか違わないので、合同誕生会と花見をかねて、連日花見をしているような気もするが、夕方京都木屋町の割烹で、食事して、木屋町の夜桜を見ながら歩こうと計画した。
まだ早い夕方六時、口開けの客になった私達が店に入ると、カウンターの奥に、炭が起こされていて、炭火が華やかに見える。
桜の頃に相応しい蛤の飯蒸しは、桜餅に見立てられ、お薄かと思えば、蛤のスープを泡立てたもの、そんな京都らしい一品から始まり、板前さん達とあれこれ話すのも楽しいが、ふと炭をいこす、という言葉が耳にとまり、いこすの意味を聞いてみると、炭を起こすことだと教えもらった。
京都の料理人達はいこす、とはごく普通に使う言葉なのだそうだ。
私にはとても床しい響きに聞こえ、いこす、と頭の中にメモする。
手のひらの中に収まる小さなお弁当箱に見立てたものに、筍飯や、花見団子、焼き物、和え物と綺麗に詰められていた。小指の爪ほどの人形の食べるような小さなお弁当箱に感激しながら、今年の春はなんて平和なんだろうと思う。
子供が受験に失敗した年、母が桜をもう見たくない、と言い張った病重かった年、和室に一本だけ桜を飾り眺めた年、息子が東京に行き引越しで終わってしまった年。
こんなふうにゆっくりと桜巡りをした春は、久しぶりだったかもしれないと気づく。
家人と二人でゆっくり食事し、互いに一つ年を重ね健康だということに感謝しつつ、お店を後にして、川沿いの夜桜をふらり、ふらりとほろ酔いで歩く。
夕方とは一変し、華やかな店先を桜が彩り、川の水に灯が落ちて、京都木屋町の夜桜はなんとも風情がある。
三条から五条まで夜桜を楽しんで、そろそろタクシーを拾い、駅に向かおうとしたら、五条の橋のところに小さな公園があり、もう夜も更けているのに、子供たちがブランコに乗って遊び、若いお父さんやお母さん方が、ベンチで見守っているのも桜の頃ならではの景色だ。

 



 

ブランコの子の目に映る景色、綺麗だろうなと心惹かれつつ、花の京都木屋町を後にした。

 

 

 

さて、花を見るのに騒がしい日々も終わり、そうそう遊んでばかりもいられなくなって、日常業務に戻らねば、と体制を立て直すころ。

 

徒歩で駅に向かう、うちからの一番急な坂道。

 

百八段の階段を下りていくのだが、階段は落花でピンクに染まり初めていた。

 

一段降りるごとに、頭に花の枝が触れる。桜蘂が肩にもついてくる。

 

百八段の長い

 

坂道を下り、空を仰ぐと真っ青な空があった。新しい季節だ。

 

 

 

花惜しむとは青空を仰ぐこと   恵理子

 

桜めぐり    谷原 恵理子

 

家から徒歩20分で、会下山遺跡という山に至る。

 

六甲山系の登山口の一つで、魚屋道

 

〔ととやみち〕から、吹寄岩、有馬へと続くのだが、犬と散歩に行けるほどの近さに、弥生時代の住居跡と高床式倉があり、そこは少し平らになっていて、鳥の鳴き交わす山に、ひっそりと山桜が咲き始めていた三月末。

 

そこから、もう一つの魚屋道を辿り行ける、もう少し高い場所のうっすらとピンクに染まる桜を、四月には見に行こうと、朝の散歩仲間と約束したのだった。

 

四月五日、長い階段の魚屋道を、

 

頂上まで歩く。

 

小さなリュックには、花見団子を四人分、ペットボトルの水を入れた。

 

頂上には、巨大な山桜が一本あり、

 

その日満開を迎えていた。

 

山の気配濃く、連れてきた犬たちも

 

野生化してしまい、谷の方へと

 

走って行く。

 

風もない静かな山の木々に見守られ、朝の澄んだ空気の中で、一枚、二枚と散っていく桜は、美しい。

 

山全体が息を止めて、落花の一枚づつに見惚れているようだ。

 

花一枚に乗せた光が、地上に落ちるまで時間が止まっているような気がする。

 

一緒に見ていた友人が、今日が満開だから、夜桜を見ようと言う。

 

この巨木の桜を見ながら、お酒を飲めば、いいだろうなあと思い、話は盛り上がるのだが、夜に登ってくるのは、山だから、やはり物騒だ。

 

ここは猪が出没するので、もしも鉢合わせしたら、逃げ場がない。

 

残念だが、いっそ家から三分くらいの場所にある、近くの公園で夜桜を見ようと約束して別れた。

 

 

 

さて、その夜の8時、籠にお猪口を三、四個いれ、日本酒は奈良の銘酒、前鬼を一升瓶から小瓶に移し、

 

小さな公園に向った。

 

犬と一緒に、猫までついてくる。

 

ひっそりと、二人、三人と集まって、公園のベンチに座り、ささやかな夜桜を楽しむ。

 

ちょっと怪しい人に見えるかも、とひそひそ声で、話しながら、これもまた楽しい。

 

肴は、伊勢の炙りわかめ。

 

犬と猫は、二匹で追いかけっこをしたり、闇に紛れて桜の夜の公園を楽しんでいた。

 

 

 

闇の中で、この見慣れた小さな公園での夜桜は思いがけなく楽しく、癖になりそう、と言いつつ、深夜まで

 

炙りわかめと日本酒、スモークチーズでおおいに盛り上がったのであった。

 

                      続く。

 

三月のライオン               谷原恵理子

 

三月はライオンのようにやってくるという諺がイギリスにありますが、

 

まさしく、日本もこの三月は、ライオンが暴れているようなお天気です。

 

ライオンが暴れている真っ最中の東京に行ってきました。

 

予定では、横浜にいき、画家の村上たかしのコレクションを観て、銀座で家族四人が集合、お祝いの食事をして、2日めは妹とディズニーシー。

 

三日めは、私事ですが、娘が上野の森美術館で、絵を展示する初日に行き、それから、友人がたくさん集まる懇親会に参加。

 

さらに最終日に、娘と鎌倉に行くという、過酷なスケジュールを立てていたのでした。

 

ところが、私と娘は、二人とも風邪をひいて、調子が悪く、大事な行事の前だから、体力を温存しておこう、ということになり、1日めは小さな街で疲れない、代官山に行き、ゆっくりお茶でもしようと目黒に降りました。

 

すると、ほんの少し歩いたところに、庭園美術館があり、なんとエミールガレ展をしているではありませんか。

 

あまりの寒さに、ほんの少し歩いても、倒れそうになり、街をふらつくなんて到底出来なさそうですから、元は宮家の邸宅だった美術館で、ガレの宝石のような虫を描いたガラスに見惚れ、一時寒さから逃れました。

 

もう、かっこいい洋服も雑貨も、寒さのために見る気も失せて、銀座で無事に家族で落ち合い、30年に一度の贅沢、という銀座のお寿司屋さんに行き、いつもは飲まない熱燗を飲みながら、お寿司をいただき、すっかり温まり、翌日のディズニーシー

 

に備えたのでした。

 

子供たちは、それぞれに用事があり、姉妹二人とも、10年ぶりのディズニーシー。

 

子供が大きくなって、年とった姉妹二人でディズニーシー、どうなのかなと思いましたが、たちまち楽しくなってしまい、妹と毎年恒例にしよう、と誓いました。

 

ディズニーシーにいる間、やはり、月日がどれほど流れていったのかを

 

また、考えながら、父とは何度もディズニーランドに一緒にきたこと、

 

当時は、今の私とあまり変わらない年だったことを思い、ディズニーシーにきて、しみじみと自分が年とったことを意識してしまいました。

 

迷子になる子供がいなくて、お土産を買う必要もなく、作り込まれた美しい海の風景の中で、頼りないような気持ちになりながら、儚い楽しさに、なぜか20年後が、見えるような気がしました。

 

30年前も、今も、20年後も一瞬で通りすぎていく時間のような気がしたのです。

 

翌日、上野の森美術館での、娘のアーティストトークは、25年ぶりに会う従兄弟やら、学生時代の友人や、びっくりするような

 

懐かしい人たちが来てくれていて、

 

生き続けていると、もう縁が切れたと思っていた人たちにも、繋がってまた会えるんだなと嬉しい日でした。

 

今、現在形で生きているのに、過去は、何度も訪れて、歩く道に明るい色の花を咲かせてくれます。

 

 

 

風や激しい雨に乗ってやってくる三月のライオンは、爪跡ならぬ歯の跡を残していくのですが、それが春の野に咲くたんぽぽです。

 

英語では、dandeLionです。

 

最後まで、久しぶりの東京は、ライオンが暴れていましたが、

 

この諺は続きがあり、三月は子羊のように去って行く、のだそうです。

 

最終日に、疲れきった私は、鎌倉を断念し、最初の威勢は何処へやら。

 

子羊のようにおとなしく、東京をあとにしました。

 

どうぞ

 

子羊のように寒い三月が去って、暖かな野に咲くたんぽぽを

 

見られますように、と願いつつ。

 

寒い寒い三月の東京の旅でした。

 

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中之島リバーサイド句会  谷原恵理子

 

今、関西では注目のスポット、中之島リバーサイド。

 

おしゃれな新しいレストラン、川を望む喫茶店、ポツポツと点在するギャラリーがある川沿いに、円虹の前編集長、吉村玲子さんの新しい句会場がある。

 

ギャラリーの隣の瀟洒な町家の一室で、第一回めのリバーサイド句会に、わくわくしながら着いてみると、机は高いもの、低いもの、椅子もばらばら、座布団やクッションも動員し、窓からは、曳舟が時折見え、光がいっぱいに差し込む中、熱気ある句会になりそうな予感に満ちて、句会は始まった。

 

文法や、古語使いの不安な私は、玲子さんにいろいろ、いまさらな疑問もぶつけて教えていただくのが、楽しみだし、机や椅子がばらばらで、ちんまりと囲む句座の雰囲気が、寺子屋のような雰囲気で、楽しい。

 

よく知っている方も初めてお会いする方もいて、学ぶ仲間を新たに得られる句会は、もう若くない私にとっても得難い貴重な場である。

 

川のきらきらする窓にちょっと気をとられながらも、即座に一句とするベテランの方の句、始めたばかりで特選をさらう男性の句、新しい句座に活気が満ちて、中身の濃い記念すべき、第一回リバーサイド句会だった。

 

ちなみに、帰りは、大阪天満宮へ行き、盆梅展を見てさらに吟行。

 

境内には梅まつりの屋台もでていてうどん1杯280円也。

 

これをみんなで、食べて、熱心にまた盆梅展を見て、第一回めのリバーサイド句会は終わりました。

 

長い時間だったのに、学ぶ会の雰囲気がそれを感じさせず、楽しい1日でした。ぜひ、ご参加くださいませ。

 

 

 

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  お正月                谷原 恵理子 寄稿(H.28.15)

 

 

とうとう、一家族だけのお正月だった今年。

 

両親が去年亡くなり、結婚27年めにして、初めて家族だけでのお正月だった。

 

両親のいなくなった故郷は侘しく、さみしい。

 

子供達が赤ん坊の頃から成人になるまで、祖父母と一緒の時間を過ごすために、冬は早くから、青森のスキー教室に子供達を通わせ、一緒に青森の市場に買い出しに行き、雪の神社にお参りに行ったものだ。

 

時には、ハワイに行って楽したいなと思ったりしたこともあるのだが、子供達が受験生になるまでは、欠かさずみんな集まる、三世代の賑やかで、忙しいお正月を、両親の元で送ってきたのは、遠く暮らす両親が喜ぶ顔が見たかったからだ。

 

 

 

私の家は呉服屋で、母は常に忙しく、私は中学生の頃からおせち料理を担ってきた。今ではベテランと言って差し支えないかもしれない。

 

大家族の中で、私が指揮をとり、皮むきする人、切る人、足りないものを買いに走る人と賑やかだったおせち作り。鱈一本を買いに行っていた父のことも懐かしく、台所の床に恐ろしいような大きさで横たわる鱈には、毎年苦労させられたものであった。

 

しかし、今年の一家族だけのお正月。大学生、大学院生の二人の子供達から、おせちを作る必要はないとしきりに、声があがった。

 

いつも忙しくて大変だったから、おせちはいらない、カレーとローストビーフなどがあれば良い、一月一日から、店は開いているし、みんなでゆっくりとしようと言う。

 

ぐらりと心は動く。映画を見たり、読書をしたり。

 

けれども、一月一日にきちんとお正月のしつらいをし、三段重を置き、三段重ねの朱塗りの漆器でお屠蘇をいただくという長年のお正月風景を今さら、放棄することはできない。

 

買ったおせちや、ローストビーフでお屠蘇が酌めようか!

 

つやつやした黒豆や、口にいれたら、ジュッと汁が広がるお煮しめがあってこそ、朝からお屠蘇が頂けるのである。

 

という訳で、楽しようよーとぶつぶついう娘にも少し、手伝わせ、元々料理好きな息子は、甘い栗のケーキなども作ってみたりと、いつもよりは楽だが、例年通りのお正月となった。

 

楽でいいじゃん!と娘は言うが、かつて私もそう思っていたこともあるので、心は揺れたりするのだが、しかし楽することは本当に楽しいのか?という疑問もある。楽して空っぽで、もらった時間は決して楽しいだけの時間ではないだろうと思う。

 

楽することが楽しいならば、文化というものは存在し得ないのである。

 

家庭では主婦が法律なので、おせちを買う、という案は却下して、子供達をまた、こき使ってしまった。

 

しかし、いつの日か、また、子供達が結婚し、新しい命が生まれ、三世代のお正月を迎える日も来るだろう。

 

毎年、楽なお正月をしようという会話は繰り返され、年をとってそれがいいなと思う自分になる日も来るだろう。

 

同じことを繰り返すほどに、去年とは今年が違うこと、人は歳とっていくこと、いなくなってしまった人の不在感、そういうことが強く意識される。

 

お正月の席にはいない父が、鱈はもう作ったか、とうるさく騒ぎ、自分の着物はもう出ているかと母を追い立て、お餅を丸めていた母と小さな頃の子供達の喜んでいた時間を思いだしながら、あんなにも嫌いだった雪が見たい、とふと思った暖かなお正月であった。

 

 

 

船を打つ風を見てゐる三日かな

 

                                   恵理子

 

 

 

円虹の皆様、今年もどうぞよろしくお願い致します。

 

 

 

 

師走  

谷原 恵理子(H.27.12.17寄稿)

 

 

年の瀬も押し迫り、慌ただしくなってきた。

 

毎年のことだから、忙しくなるのは承知の上で、なぜかいろいろと、やらねばならないことは増えて、もう背中まで囃し立てられているような。

 

などと、言いつつ、最近、月に一度京都までお習字に通っている。

 

小学生以来のお習字だ。

 

きっかけは、佳乃主宰のたおやか句会の発表会だった。

 

俳句をしているのに、短冊に書いたこともなく、そもそも、筆を持っていず、娘の筆を借りて書いたものの、なんだか情けない、力のない字でちんまりとした出来上がり。

 

これではいけない、と思っていたところ、着物の関係でふと知り合った方が書家で、自宅で教えて下さるというので、自宅からは遠いが、一日を非日常的に旅をするように、お稽古に通う決意をした。

 

この歳の瀬にも、先生のお宅にお邪魔し、南天が活けられた和風の素敵なクリスマス気分の玄関に靴を脱ぐ。

 

そして赤い塗のお盆に出されたお抹茶をいただき、骨董品屋さんで見つけた火鉢に安らぎ、坪庭の紅葉を愛でつつ、書のお稽古にはいる。

 

時々、おやつをいただいたりおしゃべりもするが、書いている間は、しーんとした時間が訪れる。

 

 

 

ここに来るために、朝五時に起き、走りながら掃除機をかけ、犬に散歩の短さを謝りつつ、走って駅に向かう私は、まさしく師走の人だ。

 

 

 

でも、掘り火燵になっている広々としたテーブルに、和紙を広げ、良い筆を持ち、背を正す時間。師走を追い越してしまったような静かな気持ちになる。

 

ハーブや花の匂いに負けないくらい、墨の匂いも好きになってきた。

 

この冬は、いつも追われているお礼状も、練習を兼ねて、筆で書いてみた。

 

いくつになっても新しい経験は楽しい。

 

帰省する息子にも、ちょっと自慢してみようかなと思う。

 

茶の渋い織物に身を包み、真っ赤な口紅だけを挿している先生と、来年は天神さんに行きましょう!とか約束して、師走のお稽古を終えた。

 

毎年、一番苦手にしているお正月の句。お稽古のために、なんとか即吟して、書に。

 

 

 

祝ひ箸数のそろひてお正月

 

                        恵理子

 

円虹のみなさま、どうぞ佳いお年をお迎えくださいませ。

 

 

来年もよろしくお願い致します。

続・下呂温泉  (H.27.10.24寄稿)

 さて、下呂温泉泊まりのあくる日は、小雨。いざ、高山へ出発。

1時間弱のドライブだが、これまでに見たことのない幾重にも重なる深い山々。絶えず山の低いあたりから、霧が流れ、西方へと消えていく。

霧と山、飛騨川の神秘的な雰囲気を感じながら、高山の街に着いた。

 

全国に唯一現存する群代、代官所にまづは入り、高山の歴史を学ぶ。

大広間では、地元の方が、紙芝居を見せてくれていて、磔となった武将の妻の嘆きを語っているところだった。紙芝居が盛んであるらしく、少し息が漏れる、高齢の男性が優しげに語る歴史紙芝居はとても良いものだった。見ていた人たちから、大きな拍手が起こる。別の部屋では、笛の演奏が男性三人で奏でられ、小京都と呼ばれる高山の街の文化の奥深さ、豊かさを感じた。

昨日、見ることが叶わなかった祭のことを考えながら、陣屋を出て、高山祭屋台会館へと向かう。

高山の古い町並みは、今も生き生きと機能し、どの店も民芸風とは言えない、高い美意識がある。

黒塗りの美しい町並みに、びっくりしつつ、どの店にも入りたくなってしまう。

古道具屋さんも、綺麗な上に、とても面白いのだが、やはり、最優先の祭屋台会館へと急ぐ。

祭屋台会館は、巫女さんが、入り口で出迎えてくれ、そのまま展示してある屋台の説明をしてくれる。

神輿と普通は言うと思うのだが、高山では屋台と言う。

 

その圧倒的な豪華さ、技の緻密さ、大胆さ、ため息の出るような美しさ。こんな、深い山の中に、高い技術者の集団がいて、富を蓄え、独自の文化を築きあげた誇りと文化が、屋台を見ると、伝わってくる。

氏神様である櫻山八幡宮の秋の例祭は、毎年10月9日と10日に行われ、屋台曳き揃え、からくり奉納、クライマックスの宵祭りと、ビデオを見せてもらい、知る。夕方の百個の提灯、曳き別れの歌を歌い、屋台蔵へと帰る様子に、再び見ることの叶わなかった残念さが込み上げた。

からくり人形も不思議な美しい離れ技を見せ、見なかった宵闇と灯火が織りなす夜へと思いを馳せながら、高山の街を後にした。

 

深い山のトンネルと、雲の中を抜けて、走らせる車は、いったいいつになれば、家に着くのかなと不安になるほどに遠かった。

しかし、深い山を抜けて現われる

あの美しい街の祭を私はいつか見たい。

神楽台の大太鼓、鳳凰台の彫刻、屋台の金や赤の絢爛たる意匠を、何度も反芻しつつ、来年こそ高山宵祭りを見よう!と心に誓った。

 

冬のにおひ星々昏き山に沿ふ

                              恵理子



下呂温泉     谷原 恵理子(H27.10.12寄稿)

 

夏から秋へ急速に秋が深まっている。

気温変化についていけず、体調を崩し気味の家人が、まだ行ったことがない下呂温泉に行きたいと言う。

三連休の10月10日、ロングドライブ5時間を経て、下呂温泉に着いた。

昼食をとったり、道の駅で舞茸スナックチリ味など、買いものしたりして、時刻は午後二時を回っていた。

 

ホテルに着いてみれば、今日は高山祭りだと言う。

車で急ぎ、向かっても、近くのJRの電車で行っても、祭りは既に終わる時刻。時既に遅し、である。

不調の家人は、ゆっくり散歩するか、温泉に入る以外は何もしたくないと言う。涙を飲んで、ただゆっくりするということを選択した。

夕方から、下呂温泉の中心街を散歩することした。

草津、有馬と並ぶ日本の三大名泉、下呂温泉は古くは湯島と呼ばれ、飛騨川が、街の中心を貫くように流れている。

噴泉地近くまで歩くと、白川郷から移築された合掌村があり、この地に少しの間暮らしていた、野口雨情の歌碑も点在していた。5時の鐘を聞きながら、山から再び飛騨川沿いをそぞろ歩くと、湯の街に灯りが灯り始め、川沿いに沿う街灯が美しい。

いくつも架かる橋の袂に、チャップリンの像があった。

チャップリンは、来日してこの地を訪れたのだと言う。

チャップリンは小さな背を丸め、石の上に座り膝を抱いていた。

最後の映画となった、ライムライトの売れなくなった喜劇役者のイメージなのだろうか。

街灯も、ロンドンのような、異国的な感じがあり、どこかライムライトのイメージに重なる。

家人は、何もすることのない日暮を安らかに楽しんでいる。

チャップリンの像に秋冷がしのびより、隣に座って、豊かに流れる飛騨川に映る金色の灯を長いこと見ていた。下流まで続く灯がなんとも言えずきれいだ。

高山祭を見逃した無念をまた次の機会に書いてみたい。

翌日の予報は雨。カーテンを開けて、窓から聞こえてくる虫の声を聞きながら、眠りについた。

 

馬追やライムライトの灯を慕ひ

                               恵理子


青葉木菟の子アオバズコ

             藤本 たける(H27.7.29寄稿)

 今日、729日の箕面山の青葉木菟の様子です。

いつも望遠鏡を三脚に据えて、誰にでも見せてあげるお爺さんによれば、寝ずの番をしている青葉木菟に名前を付けたのだそうで、雄を「太郎」といい雌を「花子」というらしい。ずーっとそのように呼びかけていたから、近頃は太郎と呼ぶと反応するんや、そうだ。忍耐と努力のたまものと言えましょうか。忍耐は、木菟ちゃんの我慢のことですけれど。努力はお爺さんのものです。

 さて今日ですが、ずーっと同じ木菟ちゃんと思っていた一羽でしたが、このお爺さんが、あれは子供やで、と教えてくれた。写真を拡大して眺めてみたらホント、毛並も表情もなんとなく幼い感じがするではないですか。そういえば垂れ目のようでもあるなあ。

この子には僕が名前を付けてやろう! 「アオバズコ」って名前はどうだ? 東欧のどこかの国のサッカー選手みたいで、いい名前じゃないですか、ねえ。アオバズコが世間に姿を見せるということは、旅立ちが近いということだ。南の国に帰ってゆくってことだ。いやここで生まれたアオバズコは、帰るのじゃなく渡ってゆくってことか。いずれにしても、別れは近いのだ……。夏が終わるのだ。 

                                    


七月十四日の……。                           藤本たける(H.27.7.17寄稿)


 青葉木菟をみてきました。今朝はめずらしくご夫婦そろって巣を護っていました。だけど二羽のあいだは、ずいぶん距離がありました。二羽そろえてカメラに収めようとするとどうしても小さくなります。この写真の向かって左にいるのが雌で、先だってご紹介した木菟ちゃんです。右側のがおそらくご亭主だろうと思われます。この距離からすると二羽の愛は、もう覚めてしまっているのかもしれません。こういう夫婦のことをナットクズクというのでしょうか。今日は文章を無視して、写真を楽しんでください。

 

                                  たける


恵理子の俳句いろいろ                        (平成27年6月15日)

家の近くの川の上流へ蛍を見に行った。
今日は日曜日。蛍を見に行くのに、蛍が発光しているような、不思議な大きな丸が描かれた、紫の母の着物を着てみようかなと、ふと思った。
日頃は、家事や用事に追われて、普段着の着物に袖を通さずにいるが、さあっと、夏の着物をまとって、博多の半幅帯を変わり結びにして、畳表の草履を履く。
鼻緒は、白。
灯りがあまりない山道に向かう足元、灯りのように、足袋と鼻緒がぼうっと白い。
いつも歩いている、親しい川の上流に、人がたくさんいる。
小さな公園のわきから、かなり低くなった川へと、滝のように流れ落ちるところに蛍がいた。
闇は漆黒ではない。どこかに濃い場所と薄明るい場所がある。
人が暮らす川辺は、闇もどこか明るさを内包している。
けれど、蛍が光る闇は、その中でひときわ濃い。
恋してるんだね、と隣で見ていた十代の恋人同士が言う。
二匹の蛍がちかちかと優しい闇の中に、浮かび、また消え、いつまでも二匹で飛ぶのを、 ぼうっと見ていた。
漆黒と薄墨色と金色の蛍の光は、華やかで、濡れている夜の色だ。
静かなはずの心が、ざわざわとする。ざわざわを手放したくないのが、俳人なのかもしれない。
綺麗な、儚いはずの蛍に、騒がしい心を重ねてしまうこと。
闇は、人間の原始の色なのかもしれない。
いつのまにか、闇の中で、相当の時間が流れていて、どこかチカチカとした光が体に纏わり、その夜は寝苦しい夜になった。
蛍は恋の句が多いなあと、思い出しながら。


螢籠昏ければ揺り炎えたゝす  橋本多佳子


たおやかに、俳句展示

                        藤本たける (2015/6/5投稿

 

 佳乃主宰がもってらっしゃる俳句教室の一つ、コープカルチャー塚口の「たおやか俳句」ではこのたび、みなさんそれぞれ〝自信の句〟の展示をいたしました。530日(土曜日)と31日(日曜日)の2日間。3月のたおやか句会で練習をした筆書きの短冊をです。ここの各カルチャー教室の「作品展示発表会」に参加させていただいたのです。23回にもなる‘由緒ある展示会’。和紙のちぎり絵や陶芸教室、ステンドグラス、書道、俳句、短歌など30を越す講座が開かれているカルチャーです。

 われらが俳句教室の展示には、パネルだけではなく机をお借りして、円虹誌や月刊『俳句』(kadokawa)などをはじめ主催のお顔写真、そして仲間の谷原恵理子さんがお持ちのエゴの花(めずらしいピンク色)紫陽花を活けて、たおやかな景色に演出されていました。すべて橋本絹子さんのご尽力です。

 来場者は予想以上の(本当に!)数で、閉会間際は「ひきも切らぬ」ありさまで、盛況でした。

 

■作品の紹介をいたします。

 

花ひらくやうに生まれし蝶の翅     佳乃主宰

 

咲き満ちてよりの小暗き八重桜/大いなるものの糧なる春の雨/春浅し窓辺の妻の独り言/薄れゆく逆修の文字や春の雨/久美浜のさ波寄せて風光る/指先に夏あそばせて伎芸天/春浅し真白き産着風に揺れ/古書店の棚に漱石つばくらめ/京の春にはか舞妓にすれちがふ/風よりも速しと思ふつばくらめ/初暦めくりてパリの街の中/なつかしき女のやうな春の雨/あはあはと杏の花の里昏るる/石鹸玉天女のあとを追つて行く  

(パネル展示順)

 

佳乃主宰以下15人の出品、なんだか学生時代の文化祭の感じもして、うれしい2日間でした。

                                 〆


恵理子の俳句色いろ                                            (平成27.6.5寄稿)

 

雨が降り出した、今日の午後。

庭に去年植えた紫陽花の色が、雨の庭を明るくしている。

 

一つは、青。もう一つはピンク。

青用の肥料、赤用の肥料をそれぞれきっちりと施したら、隣同士に並んで咲く紫陽花は、青色とピンクで、互いを引きたて合うように咲いている。

青もピンクも、どちらも小さな星のような額の花、紫陽花は雨に美しく咲く花なのに、名前の中に陽という字を抱く。

紫陽花を剪って、雨の家ごもりしている私は、あちこちに紫陽花を生けてみる。

薄暗い家の中でに、光を恋う紫陽花が青く、白い壁を色どる。

雨の安らかな午後を過ごして、ふとベランダに出てみると、野菜プランターの中で、イタリアンパセリが花をつけていて、まあ、季語的には遅いのだが、茎立ちになっているなあと思い、剪らなくては!

と思ったが、捨てるくらいなら、いっそ花として飾ってみようかと思った。

夕方の肌寒い雨の窓辺に、イタリアンパセリの頼りなく瑞々しい緑の花を、ガラスの花瓶にバサっと生けた。野菜特有の可憐な花は、梅雨寒の窓によく似合う気がして、緑色が華奢な感じもいい。

どこにも出かけない一日、私は青やピンク、緑、の花たちに出会う。

遠くの場所へ吟行に行くのも楽しさがあるが、家に引きこもり、小さな庭に自然の色を見つけることも、楽しいなと思う。私の今日という一日は、青、ピンク、緑、そして降り続く雨の色で、なんだかにぎやかになる。

紫陽花のように、明日は陽の色が恋しくなるだろう。

 

紫陽花に秋冷いたる信濃かな 杉田久女

 

紫陽花剪るなほ美しきものあらば剪る 津田清子

 王子動物園            高橋純子(h.27.4.14)

 今月のうさぎ句会は、王子動物園にお花見を兼ねて吟行に行きました。

 阪急王子公園駅を降り立つと もうそこに桜の花が盛り上がって見えていました。

動物園の扉を入ると満開の桜に出迎えられました。

 俳句で 動物園を一周してみたいと思います。

 

    花屑を敷き詰めてゐる動物園     木村恭子

    初花にレビューのごときフラミンゴ  林和子

    籠の鳥自由の鳥に飛花落花      山田佳乃先生

    水温むあしかのこゑの噎せてをり   高橋純子

    亀鳴くを待ちて兎は眠りをり     森岡喜惠子

    桜散るオランウータン玻璃の恋    奥田友子

    草の蝶翔たせて現るるパンダかな   大谷櫻

    縞馬の眼落花を追うてゐず      吉村玲子

    花屑の水より河馬のあがりけり    安田徳子

    立つたまま眠るペンギン花の昼    中村恵美

    花の雲掬ひて巡る観覧車       酒井八重子

    春愁やたらりと鼻を落とす象     石井ユキヱ

    樟落葉踏みて吟行終りけり      長谷川通子

    慮る帰路の山坂花疲         髙柳しずか

 

桜の下でいただいたお弁当は美味しく、動物たちの姿に癒される一日となりました。

 


化粧の呪縛           

                                     新 家 月子(H27.2.25寄稿)

自慢にならないが、口紅を買ったことがない。他人のお下がり(気に入らなかったとか、)や、海外旅行のお土産で事足りている。私にとって口紅は、とにかく塗っていることに意味がある。つまり、どんな色が自分にピッタリなのかなんて興味がない。そもそも化粧に淡白なので、朝塗ったら、夕方までそのまま、という日々が何年もあった。なにしろ化粧品一式を家の洗面所に置きっぱなしなので、化粧直しができなかった。食事をしたら、口紅は剥げたまま。全然平気だった。今考えると、何とみっともない小娘だったことか。いや、中年になった今でも睫毛の装い方を知らない。そしてアイシャドウは未体験のままだ。周囲に情報を交換する女子が居なかったために、化粧についての知識が乏しいままだ。化粧とは私にとって、何かまだ他人である。

 

化粧とは呪縛に似ている。一度始めたら、おいそれとやめることは出来ない。学生になって、口紅を塗り始めたら、毎朝塗らずにはいられなくなった。社会人になり、眉毛を整えだしたら、少しでも伸びると切らずにはおられなった。そして、眉毛を書きだしたら、書かずに外出ができなくなった。

呪縛はどんどん膨らむ。自分で増やしているのだ。しかし、ただ縛られてばかりではいずれ息切れする。化粧の呪縛が解けないのは、そこに飴と鞭的要素が存在するからだ。

起き抜けの、どうしようもなくだらしの無い、能面のような顔に手を入れる。この上もなく面倒ではあるが、少しずつ整理した“顔“の現れる高揚感と快感は、男には理解できないかもしれない。少なくとも、素顔よりはマシになっていると信じている。しなければならない義務的な行為の中に、女の欲望を満たす快感が伴うのだ。しかし、やはり縛られているので、眉の形が上手く行かなかった日は、一日中、なんだか不本意な時間を送ることになるのも、また事実だ。

 

呪縛の強弱は人それぞれ。宗教にはまるのに似ていなくも無い。友人の出産祝いに駆けつけたところ、病院お仕着せのパジャマを着て、フルメイクで赤子を抱く姿に激しい違和感を感じたことがある。逆に、合コンにボサボサの眉毛で現れた後輩に、絶滅寸前の希少性を認め、その存在を守ってあげたいような気になったことも。

呪縛は自分で自分にかけているだけなので、悲しいかな他人にはどうでも良いことが多々ある。電車でとなりに座っているOLの口紅が剥げていようが、まさに目の前で話している友人がノーメイクでも「今日はそういう気分なのだろう」と思うだけだ。それでも、女は化粧をするという呪縛から抜け出すことはできない。未開の地の首狩族の女たちですら例外はありえない。そもそも化粧とは、建物であれ人であれ表面を繕うということ。人間の場合は異性の視線からより自分を美しく装い、その他大勢の中から選ばれることで、自らの遺伝子をもつ子孫を残そうとするのだ。これを男尊女卑ということなかれ、太古からの生物の道理であり本能でもある。

呪縛から開放されるのは、たまに出現する自然派というほとんど病的なな信仰に転向するか、鏡に映る自分の顔が見えなくなった時ぐらいだろう。

毎日、多量に生産される化粧品と同じく、日々多量の化粧を女たちは落とし、海へ流し続けている。工場排水を海に流すことは悪でも、この事実を非難する話しは聞かない。それくらい化粧の呪縛は女にとって絶対だ。


海岸通

    高橋 純子(h.26.3.13寄稿)

 3月7日(金)うさぎ句会から海岸道近辺の吟行に行ってきました。

 風はまだ寒かったですが、旧居留地の洋館や石造りの建物を眺めながら、メリケンパークへ向かいました。地震の傷痕を残したままのメモリアルパークには外国の方も訪れていました。波上の先にある移民の碑の像は、遙か沖を指さしています。海にはかもめが翔び交い春を知らせています。東岸壁からは川重の造船の大きなドックや、ハーバーランドの大観覧車、出発を待つクルーズ船コンチェルトが見えます。ポートタワーに上がると神戸の海・山・町の絶景が楽しめます。近くのホテルの屋上には素敵な教会がありました。

 潮風に押されながらタワーロードを北へ上がり元町道から中華街に入ると、たちまちに屋台の粽や豚饅の湯気と美味しそうな匂いに包まれます。空腹を我慢して大丸前を通り、プラダのバッグを横目で覗き、又海岸通に戻りました。この通りにある句会場のレストランは、石造りでお部屋もレトロな雰囲気がいっぱいなのです。フレンチのランチコースの華やかさと美味しさに舌鼓を打ち、またデザートの可愛らしさに一瞬、吟行会であることが頭から飛んでしまいました。コーヒーを戴きながら14名の70句が回ります。春らしい神戸の景が沢山詠まれていました。

 楽しい句会も終わり、篠山まで帰る方、博物館のターナー展へ行かれる方、ショッピングを楽しむ方と、それぞれ回転扉を押して、又神戸の町へ散ってゆきました。

サーモンを彩どる皿の春野菜  酒井八重子

居留地の虫とし穴を出でにけり 熊岡 俊子

草青む鎮魂の歩を波止場まで  山田 佳乃

          20才のお祝い 
                                       谷原   恵理子(H26.1.20寄稿
巷でDN A 鑑定が話題になっている。
いきなり、自分と子に親子関係はないという、足元から世界が覆るような結果が出た場合のショックとは想像すら出来ない。
身の凍るような話ではあるが、テレビで見ていたら、今や東急ハンズでDNA 鑑定キットが6千円ほどで手に入るという。
この場合は、親からどんな才能を受け継ぎ、何が不向きかがわかるので仕事に役立てたいと    40代以上の人に人気があるらしい。

 このお正月、不肖の息子が東京から帰省した。私立の大学生で東京で一人暮らしであるから、どうにも経費が嵩む。これまでのお正月といえば、家族でバーゲンセールに奔走していたのだが、今年はお正月といえど  バーゲンセールに走れない悲しい事態となった。
 息子もその辺、あ、うんの呼吸でわかるらしくなにも買ってくれとは言わなかったのだが、20才の成人式を迎えるし、なにかひとつぐらいは買ってあげようと、お祝いになにがいい?と聞いたところ、「包丁」と答えた。「包丁?」20才の息子の意外な答えに私と娘はびっくりした。

 実は息子の趣味は料理である。
家にいるときから、やけに筋のいい感じはあったのだが、一人暮らしになり、趣味に拍車がかかったらしい。おせちの鰤照りや、ローストビーフもさあっと作ってしまう。クリスマスには、レストランに行くお金がなかったので、全て手作りで料理を用意し、恋人をもてなしたらしい。
そんな訳で、ぜひ、よい包丁が欲しいと言う。「あらー、包丁はなかったけ?」
と聞いたら100円ショップの包丁で頑張っていると言う。

 この会話をしていて、突然私の記憶は25年前に遡った。
結婚が決まって、東京一人暮らしの私は、嫁入り道具の先ずは一番によい包丁を買いに行ったのだった。
 包丁といえば、日本橋の木屋である。名店である。寛政4年に開業の惚れぼれとする包丁が置いてある。
25年前に買った柳刃も出刃包丁も 牛刀も健在である。錆はでるが、今も抜群の切れ味だ。他にも包丁はあるのだが、私は木屋の包丁をこよなく愛している。DNA だなあとこの息子を見ていると思う。20才のお祝いにいい包丁が欲しい息子と銀座中央通りを、いそいそと包丁を買いに歩いていた昔の私自身の姿が重なる。
 DNA はこんないたづらをするのだなあとしみじみとし、木屋よりはちょっと劣るが、幸いにもちょっとバアゲンになっていた、よい洋包丁とペティナイフを買ってあげたのだった。
 姉である娘は「なんてマニアックな」と呟いていた。
「生まれ変わったら、シェフになりたい」などと能天気な話をする弟に、努力型の姉は「勉強してA のひとつもとりなさい」「シェフになりたきゃ、生まれ変わらずとも、今すぐシェフの勉強をしなさい」と言う。この目標のさだまらず、ふわふわと気の多い軽薄さもまた、自分のDNA を間違いなく受け継いでいると確信した次第である。
 息子はお正月明けに大切に包丁をバッグにしのばせ、東京へ戻って行った。
家中の在庫である食べ物を、ぎゅうぎゅうに箱詰めにして、あとで送って欲しいと言う。またしても、ついこの間まで実家の食べ物を山ほど貰って東京に帰っていた自分と、似ていると怖いような気持ちになりながら、せっせと箱に詰める私に、亡くなった母をふと重ね、切なく思い出した人日であった。

     持ちよりパーティ    

                谷原 恵理子(H.26.1.9寄稿)

 

時々家で持ちよりパーティをする。主婦の集まりだから、昼食時である。日頃の掃除がいきとどいていないため、お客さまを招くとなるとバタバタと家を掃除するのにせいいっぱいで、タイムリミットまであと一時間、なのに、肝心の料理はと言うとお米も研いでない有り様だ。招いておいてこの事態!と内心青ざめていたりするのだが、辛うじてパエリアなどを作りあげ、とりあえず一品は食べ物があると胸を撫で下ろす。そのうちに、一番に到着した友人が奈良から取り寄せたお菓子や、四国のロールケーキ、愛媛のポンジュースなどを持ってやってきた。来たよーと言いながら、熱々のアップルパイと共に来た友人に、「ワア!」という喚声が上がる。仕事を終えてやって来た友人の手にはおつまみにぴったりの美味しいお惣菜の包みが。金沢の大根漬けを樽ごと持ってきた人も。
 我が家の食卓にはたちまちいろんなお国の特産品や、手作りのお菓子がならび、豪華な楽しい昼食パーティとなる。よく考えてみたら、貰い物の素敵なスパークリングワインがあったなと思いだし、私も先ほどのパニック状態も忘れ、すっかり余裕を取り戻す。みんなが持ちより、ちょっとしたレストランより、はるかに豪華で、安上がりで楽しい食卓を囲み、わあわあ話しながら楽しい一時を過ごす。

 東京は持ちよりパーティに似ている。広大な東京に集まってくる人びとは手に手になにか持ってやってくる。 私は20年以上東京に住んでいたのだが、生粋の東京人という人は案外少ない。隣の人がロシア人で、その隣の人は群馬出身ということもめずらしくない。関西人も多い。みんなが集まり、留まり、また流れて行く、それが東京の宿命だ。だから、お国訛りを笑ったり、言葉の違いを指摘する人はいない。より集まりの都市は、違いを大きく受け入れる。本人が標準語をしゃべっているつもりで、岩手弁まるだしだとしてもなまってるねーと指摘したりしない。よしとする。片言の日本語も理解しようとする。
 標準語は青森や九州や信州の人も最もまねのしやすい喋りやすいことばであるから、私などもほとんど2か国語を喋っているつもりで、ふるさとの津軽弁と標準語を使い分けていた。もし、かっこいいスマートな東京の言葉に怯んだら、この人はもしかして普段は東北弁を喋ってるんじゃないかなーとか、四国の人かもとか思いながら聞いてみると、標準語もまた違ったふうに聞こえるのかもしれない。そうして、各地から集まって来た人たちは隠し持つ第一言語の故郷の知恵や文化、特産品や風を運んできて東京という食卓にのせる。多彩でエネルギッシュで、無国籍な料理は多種になり、選択肢が多くなる。ちょっぴりづついろんな土地の味を味わい、びっくりしたり、触発されて新しい料理をおもいついたりもするだろう。そして楽しい持ちよりパーティのあと、また地味な日常に戻り、きらびやかな東京の灯を横目に働いたり勉強したりする。

 人の波、雑踏、広大な東京の空の下が私は好きだった。その中で無記名の人になる気楽さが好きだったのだろう。呼吸が楽になったような気がした。だあれも私を知らない街を歩いていると、子供の頃のかくれんぼをふと思い出す。誰も知らない場所にひそんでいるうれしさ。でもやがて見つけてもらい、また小さな遊びの輪にもどっていく。[。。。ちゃん」と名前を呼ばれる時、無記名の私は名前を持った人に戻る。この広い東京で名前を呼んで私を見つけてくれた人と、今も時々会って小さな輪の中で遊ぶ。関西の銘菓など持って。おかしいと笑われる関西訛りの標準語で、懐かしい人たちと食卓を囲む。

東京弁

             大村 康二

 関西人、特に大阪人にとって東京弁は馴染

めない言葉と感じている人は多いのではない

だろうか。「それはダメだろう」「バッカじゃ

ないの」等々を東京人の切れ味の良いイント

ネーションで言われると、なぜか大阪弁では

対抗しづらく、大阪弁イントネーションの標

準語で少し卑屈に話してしまう。言葉の違い

と分かっているのだが、心の片隅に何かわだ

かまりが残る事もある。

 東京は日本の首都であり、政治や経済の中

枢の役割を果たし、現代における日本のカル

チャーの中核である。そして、東京以外の地

域は「地方」と表現され、東京との格差が図

られる。首都とはそのような所なのだが、特

に日本で2番目の都市とされる大阪は、都市

としてどうしても追い越すことのできない東

京に対抗心を抱いているという素地があるた

めか、東京人の歯切れが良く少し冷たく感じ

る言葉に抵抗を感じるのではないだろうか。

 演歌歌手の天童よしみに「とんぼり人情」

という歌がある。その中に

 負けたらあかんで東京に

 冷めとないやさしい街や

とんぼり(道頓堀)は

という歌詞がある。私としてはそんなに東京

に対抗心を燃やさなくても良いのにと、この

歌を聴いて思ったのだが、この歌がヒットし

たのは、大阪人の東京に対する想いが反映し

ていたのかも知れない。

 しかし、最近東京弁へのイメージが変わり

つつある。6歳になる私の孫が東京で暮らし

おり、幼児語から男の子の言葉に変わる頃な

ので、顕著に東京弁が出てきた。「おててを

洗いや」と私が言うと「おててじゃないよ手

だよ」と答え、何か失敗すると「やっちゃっ

た」などと可愛く話す。歯切れが良く明るく

感じる言葉なので、可愛さが倍増する。

しかし、孫が大きくなるにつれ、大阪人が

抵抗を感じる東京弁を使うようになるのだと

思うと少し複雑である。

歌の思い出    小林 志乃

 

 「空も港も夜は晴れて 月に数ます船の影 はしけの通い賑やかに よせくる波も黄金なり」。

小学三年生の担任だった松林繁先生は、毎朝全員にこの「港」を歌わせた。他にも「海」や「砂山」「冬景色」など唱ってから授業が始まった。なぜか海の歌が多かった。先生は鹿児島の出身で少しお国訛りがあった。男手一つで、男の子一人育てておられたようで、子供心にも大変だなと思ったものだった。

その頃、学校で問題集や参考書等を注文して、先生に代金を渡したのに物品が届いてないと、父兄から苦情が出たことがあった。そのことが直接の原因ではなかったと思うが、二学期から先生は学校を辞められた。「病気のため国へ帰ることになったので」と挨拶された。その時の先生の顔がとても淋しそうだったのが印象に残っている。優しい先生だった。

最近のことだが、芥川也寸志と安野光雅の「歌の絵本」と題して、日本の唱歌を音譜も付けてまとめたのを書店でみつけた。孫にプレゼントしようと思って買ったのだが、その歌詞と絵が何とも懐かしくこころにしみいるものばかりで、未だにわたしの本棚の片隅にある。

私も幼稚園のころまで祖父母の家で海を見ながら育った。毎年夏休みには帰って、家の二階から夕日を見るのが好きだった。夏休みが終る頃はなぜか切なくてさみしい気持ちになった。浮かぶ月を見ながら、「数ます船」なのに、「月にかすまず船の影」と歌っていたのだが……。

鹿児島に帰られた先生は故郷の海を見ながら「港」を口ずさむことがあったのだろうか。